裏の意味はないよ

「神は真実です。」
(コリントⅠ1:9
 
 
 
転居のお知らせに書いてある
“お近くにお越しの際は
ぜひお立ち寄りください
 
 
 
結婚式の招待状に書いてある
“平服でお越しください
 
 
 
これをそのまま受け取って
ほんとに引っ越し先に訪ねて行ったり
普段着で結婚式に行ったり
は、実際にはあり得ません。
 
 
 
京都で「お茶漬けでも」
と言われたら
「もう帰ってください」
っていう意味なんだよ。
っていうのもけっこう有名な話。
 
 
 
書いてあるとおり
言われたとおりじゃない
裏の意味がわかるようになる。
それが大人になる
ってことだったりします。
 
 
 
こうは言ってるけど
ほんとはどうなんだろう?
それはうそではないってことに
なってるけど、うーん、
けっこうむずかしくて微妙です。
頭の中も忙しい。
 
 
 
でも神さまは真実。
それはつまり、
こうは言ってるけど
裏の意味があって、実はね
っていうのはいっさいない。
ってこと。
 
 
 
だから、言ってることは全部
そのまま真に受けてだいじょうぶ。
 
 
 
逆についくせで裏を読んじゃう
なんてことも
あるかもしれないから、
そっちを気をつけた方が
いいかもしれません。
 
 
 
今日も神さまは真実。
裏は一切ありません。
安心して頼ることができます。

スーパームーンのように

「これは、あなたの神、主、
イスラエルの聖なる者のゆえである。
主があなたを輝かせたからだ。」
(イザヤ55:5
 
 
 
いつもより月と地球の距離が近くて
特に大きく見える満月、
スーパームーン。
 
 
 
この前のはお天気も良くて
とてもよく見えました。
スーパームーンてなぜか色も濃い。
何とも言えない不思議な雰囲気があります。
 
 
 
月はもちろん、
自分で輝いているのではありません。
太陽の光をうつして光っています。
地球の影がかからず
さえぎるものがないのが満月。
 
 
 
世の光と言われている私たちも、
自分で光るんじゃない。
光はもともと神さまだけが
持っているもの。
だから私たちが輝くのは
神さまの光を受ける時。
 
 
 
それを自分でならなくちゃいけないと
思いこんでると大変。
いつも張りつめて歯を食いしばり、
気が抜けない。
それではたとえ少し立派だったとしても、
周りの人には魅力ではなく息苦しさが
伝わってしまうでしょう。
 
 
 
私たちが輝く。
それは実はぜんぶ
神さまがしてくれること。
 
 
 
神さまといっしょに生きている。
っていうことそのものが、
神さまを認めないこの世界では
光になるのです。
 
 
 
自分の光なんて
きっとだれも見ていない?
そんなことはありません。
まわりが暗ければ暗いほど
どんなに小さい光でもちゃんと見える。
 
 
 
見せよう。と思わない。
だれが見ているかはまかせて、
自分が気にするのは
神さまの光をさえぎらずに
生きてるかどうか。
 
 
 
今日も神さまの光をいっぱい受けて
過ごしましょう。

もちこたえるパワー

「獅子や熊の爪から
しもべを救い出してくださった主は、
このペリシテ人の手からも
私を救い出してくださいます。」
(サムエルⅠ17:37
 
 
 
中学の定期試験に始まり、
高校や大学の入試、
卒業試験、国家試験、資格試験などなど、
進もうとする道に立ちはだかる関門。
 
 
 
本番の日になって
急になんとかしようとしても
乗り越えクリアすることは
まず不可能。
 
 
 
それなりに普段からの積み重ね。
ワクワクなどない、
きらきらもしていない
はっきり言って地味な小さなくり返しが
あって初めてその関門にもちこたえ
通過できる。
 
 
 
ダビデは、
羊飼いとして忠実に自分の群れを守り、
獅子や熊と戦ってきた。
その経験が、
ゴリヤテというとんでもない敵と
戦うパワーをくれました。
 
 
 
私たちの信仰も同じ。
ものすごい大きな問題にぶつかってから
急にお祈りしよう、信じよう
安心しようとしても、
なかなかうまくいきません。
 
 
 
だから、
特に何もないときにくり返す
神さまとの関わり
⇒聖書を読んだりお祈りしたり
がとっても大切。
 
 
 
ワクワクもないし、きらきらもしてないし、
何か意味があるのかな?
と思えても、その地道な積み重ねが
いざという時の底力になる。
 
 
 
どんなに小さなことも
決して無意味じゃない。
今日も心をこめて
神さまといっしょに1日を過ごしましょう。

食べればわかる

「私は主の前に
心を注ぎ出していたのです。
…それから彼女は帰って食事をした。
その顔は、
もはや以前のようではなかった。」
(サムエルⅠ1:15,18
 
 
 
餃子。好きですか?
パリパリの皮とジューシーな中身
香ばしいにおい
ときどき無性に食べたくなります。
 
 
 
ところで、
餃子を一度も食べたことがない
っていう外国の人に
どうおいしいか説明して。
って言われたら
どんなふうに説明しますか?
 
 
 
食べたことない人に
食べ物の味を説明するのって
かなりむずかしい。
わかってもらうのに一番いい方法は?
そう! 食べてもらうこと。
経験にまさる説明はない。
 
 
 
お祈りしたら心が晴れる。
神さまにゆだねたら安心できる。
いつも聞いてはいるけど、
ほんとなのかな。
っていう声をけっこう聞く。
 
 
 
でもそれは、
ほんとにやってみたけど?
実は、そんなに
やってみてはいないけど。
なんじゃないかな?
 
 
 
みことばに書いてあることが
ほんとうかどうか。
それは
やってみればわかる。
 
 
 
ちらっと、じゃなく、
とりあえず23回じゃなく、
自分なりに薄めたり解釈したり
じゃなく、ほんとにやる。
 
 
 
そうすれば、
ほんとだってことが
必ずわかる。
 
 

暗い廊下の奥も

「恐れるな。
わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。
わたしがあなたの神だから。」
(イザヤ41:10
 
 
 
私が子どものころ、
水洗じゃなかったトイレは、
ふだん家の人がいる場所からは
なるべく遠いところ、
長い廊下のつき当たりにある。
なんてことが多かった。
 
 
 
だから暗くなってから
行かなくちゃいけない時の
こわいことといったら。
 
 
 
そんな時は
だれか=できればお母さん
にいっしょに行ってもらう。
とびらの外で待っててくれると
とっても安心
そんなことがよくあったものです。
 
 
 
一人ならどんなにこわい場所でも
信頼できる大人が
いっしょに行ってくれれば
だいじょうぶ。
 
 
 
神さまは
私たちといっしょにいる。
ここには自分しかいない、
と思えるところにも神さまはいる。
 
 
 
人間の大人だと、
いやな顔をされたらが心配で
頼みにくいなんてことも
ありかもしれない。
 
 
 
でも神さまは
今ならだいじょぶそうかな?
と顔色をうかがったりする必要なし。
 
 
 
頼みさえすれば
いつでも喜んでいっしょに
行ってくれる。
頼みさえすれば。ね。
 
 
 
だから今日も、
こわいな、どうしよう、
と悩む前に、即、頼みましょう。