ぜったい切れない命綱
「私の父 私の母が
私を見捨てるときは
主が私を取り上げてくださいます。」
(詩篇27:10)
高い場所で危険な仕事をする時、
用心のために
からだに巻きつけておく命綱。
サーカスの空中ブランコや
高層ビルの窓ふき作業
などが思い浮かびます。
もし万一落ちてしまっても、
命綱があれば
地面に打ちつけられることはない。
だから自分の体重を支えられる
強さがないと困ります。
だれが認めてくれなくても
認めてくれる私たちの存在の命綱。
ふつうに考えたら、
それは「親」と言えるでしょう。
親が子どもを見捨てることは
ふつうはない。
(最近そうとは
言いきれなくなってきてるのが
こわいけれど)
でも万一そのふつうはないことが
起こったとしても、
その下に神さまがいてくれる。
人だけを命綱にしていると、
それは切れないとは言いきれません。
どんなに愛してくれる親も
やがてはいなくなるときが来ます。
でも神さまがいなくなることはない。
そしてその方が
決して見捨てないと言ってくれている。
ぜったいに切れない命綱がある。
だからいろいろな危険の中でも
安心していいのです。
今さら言えない…?
「主は
貧しい人の苦しみを蔑まず
いとわず
御顔を彼から隠すことなく
助けを叫び求めたとき
聞いてくださった。」
(詩篇22:24)
「今さら聞けない」
とネットを検索すると、
バーッとたくさんヒットします。
本屋さんにも
そんなふうなタイトルの本が
けっこうたくさん並んでいます。
みんなはふつうに知っている。
きっと知ってるのがあたり前。
今さらこんなこと聞いたら
「そんなことも知らないの?」
ってバカにされるんじゃないか・・・
そう思っちゃうと、
素直に聞く、ということが
こわくて
できなくなってしまうことがありますね。
それで知ってるふり。
でも知ってるふりってもやもやするし
疲れます。
もしかすると神さまにも
そんなふうに思っちゃうことは、
ないでしょうか。
こんなことお祈りしたら
「そんなこともわからないのか」とか
「まだそんなこと言ってるのか」とか
「そんなことで悩んでるのか」とか
言われちゃうかも・・・?
いえいえ、そんなことはありません。
神さまはどんな小さなお祈りも
決してバカにしない。
そんなことにかまってられない。
とスルーしたりもしません。
ちゃんと聞いててくれます。
そして助けてくれます。
これは祈れない。
ということは何もない。
今日も1日安心して
どんなことでもお祈りしながら
過ごしましょう。
痛いってふしぎ
「わたしは彼らの痛みを
確かに知っている。」
(出エジプト3:7)
みんなが知っている。
でも実はだれにもわからない
不思議なもの。
それが「痛み」。
だれかが頭が痛い。お腹が痛い。
って言ったら、
自分が痛いときを思い出して
きっとこういう感じ。って思うけど、
その人の痛みが
ほんとに自分が思ってるのと
同じかどうかはわからない。
同じケガをしても
痛い痛いと大さわぎする人と、
そうでもない人がいる。
それは心の痛みも
きっと同じ。
わかるよ、って言われても、
ほんとにわかってるの?
って思うこと、あるかもね。
人には見えないし、
客観的に測る基準もない。
ほんとに自分にしかわからない。
それが痛み。
でも神さまは私たちの痛みを
ちゃんと知ってくれている。
まずそのことを心に留めよう。
そして必ず必要な助けを与えてくれる。
そのことも忘れずに。
今週もわかってくれる神さまがいる。
だからだいじょうぶ。
モヤモヤしなくても
「神は
不公平な方ではありませんから、
あなたがたの働きや愛を
忘れたりなさいません。」
(ヘブル6:10)
まったく同じことをしているのに、
真逆の評価を受ける。
そんなことが
社会ではあったりします。
たとえば職場で、
気がついたから
言われてないけどやっておいたこと。
「よく気がついたね。
気がきくね。」
とほめられることもあるけど、
「言われもしないよけいなことを
なぜするんだ。」
とキレられることもある。
なんでそんなことになるかは、
上司のその日の気分だったり、
あの人ならほめられるのに
自分だとしかられる
っていう不公平だったり。
そういうのって、
すごくモヤモヤするし、
やる気もなくなってくる。
人の社会では、
評価する側がかなり気をつけても、
偏りが出ちゃう。
ということがあり得る。
でも神さまは、
ちゃんとちゃんと見ている。
そしてちゃんと忘れずに
評価してくれる。
だから、人の評価が
変じゃん?
てことがあってもだいじょうぶ。
今日も真実に
自分なりのベストで
はげみましょう。
何もないときから心に刻んで
「私は身を横たえて眠り、
また目を覚ます。
主が私を支えてくださるから。」
(詩篇3:5)
「ご近所の22歳の娘さんが
くも膜下出血で亡くなったんです。
まだ若くてご家族も仲良かったのに。
驚きました。」
「そうなんですか。お気の毒ですね。」
つい最近こんなやり取りをしました。
特別な違和感もない
ふつうのやり取りだと思います。
でもよく考えてみると、
このことばの裏には
22歳ならこれからもずっと生きるはず。
家族が仲が良ければ、
不幸な出来事は起こらないはず。
という考えがあるんだね。
22歳ならなぜ死ぬはずがないのか。
仲良し家族なら
なぜ不幸に襲われるわけがないのか。
特に根拠があるわけじゃないけど、
何となくあたり前だと思っている。
それがあたり前じゃなかった。
ってことは、
なくしてみて(なくしそうになって)
初めてわかったりする。
夜眠って、朝目が覚めるのも
当たり前じゃなくて、
神さまが支えてくれてるからなんだ。
ダビデも、
息子に反逆されて
逃亡しなきゃならなくなって、
そのことに気がついたようです。
どんなふつうのことも
決してあたり前じゃない。
できれば
大変な目にあってからじゃなくて、
何もないときから心に刻めると
いいね。
そうすればきっと感謝とへりくだりも
なくさないで過ごせます。