ムリなところがないしるし

「あなたがたは、
布にくるまって飼葉桶に寝ている
みどり子を見つけます。
それが、あなたがたのための
しるしです。」
(ルカ2:12
 
 
 
今まで会ったことがない人と
初めて待ち合わせるとき。
 
 
 
顔を見てもわからないから、
何色の服を着ています。とか、
こんなバッグを持っています。
とか、伝えて
それを目印にすることがあります。
 
 
 
その目印は
なるべく他の人とちがうものの方が
わかりやすい。
だれでも着ている服、
だれでも持っているバッグじゃ、
目印にはなりません。
 
 
 
生まれた救い主の目印は、
「飼葉桶に寝ている赤ちゃん」
でした。
 
 
 
そんな赤ちゃんは
他にはぜったいにいない。
だからまちがいない目印に
なったのです。
 
 
 
人より目立つ場所。
うらやまれるような場所。
何不自由ない恵まれた場所。
イエスさまはそんなところにいて
私たちを見おろしているのでは
ありません。
 
 
 
だれも行きたいと思わない場所
そこは避けたい場所
いいと思えるものが何もない場所。
そこにまず来てくれました。
 
 
 
それはイエスさまが
そこはムリ
という場所がどこにもないしるし。
 
 
 
私たちがどんなところにいても、
イエスさまは
そこに来てくれます。
そしていっしょに宿ってくれます。

居場所がない?

「その子を布にくるんで
飼葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所が
なかったからである。」
(ルカ2:7
 
 
 
自分の居場所がない。
そう感じて悩んでいる人が
たくさんいると聞きます。
 
 
 
どうして居場所がないと感じるか。
それは、「居場所は条件つき」
と考えているから。
という記事を読みました。
 
 
 
その人の中にその人なりの
周囲に受け入れられるための条件
があって、
それを満たしていない自分は
ここにいてはいけない。
と感じてしまう。というのです。
 
 
 
条件を満たしていない自分を
自分が拒否している。
こんなんじゃだめだと
いつも思っている。
 
 
 
だから自分がそんな自分でもいい
と思えれば、
解決する居場所問題はたくさんある。
・・・なるほどそうかもね。


 
 
でもイエスさまの居場所のなさは
リアルでした。
たくさんの人にほんとうに
断わられ、拒否されました。
 
 
 
家畜小屋の飼葉桶にしか
居場所がないって、
どんな気持ちでしょう?
 
 
 
だから受け入れられない
っていうことがどういうことか
リアルにわかってくれます。
 
 
 
そしてたとえ
だれが受け入れてくれなくても
わたしは受け入れてあげる。
そう言っているのです。

偶然じゃないよ

「ところが、
彼らがそこにいる間に、
マリアは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。」
(ルカ2:6,7
 
 
 
まったく同じ出来事を
ものすごくよくしたり
台なしにしたりする。
それがタイミング。
 
 
 
ほしいんだけどどうしよう…?
って迷ってたものが
ちょうど安くなってたりすると、
今日行ってよかった!
ってテンションが上がります。
 
 
 
逆に
決意して買った翌日に
バーゲンが始まってたりすると
超ガックリ😨
 
 
 
自分の努力で
ある程度はカバーできるけど、
努力では届かないところも大きい。
それがタイミング。
 
 
 
住民登録のために
マリアとヨセフが行ったベツレヘム。
長居する必要はまったくなし。
どう考えても
そこにいるのは23日でした。
 
 
 
でもまさにそのタイミングで
マリアに赤ちゃんが生まれる時が
来たのです。
 
 
 
それは偶然ではなく、
神さまがされたこと。
神さまはタイミングを支配している方。
できる方。
 
 
 
私たちには見えないところまで
全部をちゃーんと見きわめた上での
ベストタイミング。
 
 
 
私たち一人ひとりのためにも
神さまはちゃーんと
いちばんいいタイミングを
はかってくれています。

自分では思いつかない話

「そのころ、
全世界の住民登録をせよ
という勅令が
皇帝アウグストゥスから出た。」
(ルカ2:1
 
 
 
そのころ。
マリアのお腹が大きくなって、
あともう少しで
赤ちゃんが生まれそうなころ。
 
 
 
そんな時に
100キロ以上遠い町まで旅?
しかも電車や車じゃなく、
ロバで?
 
 
 
だれが聞いても
「そんなのだめだよ!
やめておきな!」
っていう話。
 
 
 
ローマ皇帝の命令がなければ
自分では
絶対やろうと思わない話。
 
 
 
ローマ皇帝は
もうすぐ預言された救い主が
生まれそうなんて
まったく知らない。
 
 
 
でもその命令で
イエスさまは預言のとおり
ベツレヘムで生まれました。
 
 
 
神さまは神さまのことなんか
考えてない、知りもしない
という人物や
信仰とまったく関係ない状況も
全部用いることができる方。
 
 
 
私たちの人生にも
なんで今こんなこと?
っていうことが起こることがあります。
 
 
 
そのとき、
あり得ない話だからって
ただ拒否するんじゃなく、
導きに従ってみる。
 
 
 
それは
私たちには想像もつかない
神さまの大きな働きの
一部なのかも!

例外なし、副作用なし

「主はその御民を顧みて、
贖いをなし、
救いの角を私たちのために、
しもべダビデの家に立てられた。」
(ルカ1:68,69
 
 
 
今年はインフルエンザが
かなり早くからはやっているそうです。
うがいや手洗い。
しっかり食事や睡眠。
できる予防はしっかりやりたいですね。
 
 
 
でもこればかりは
こうしていれば絶対にかからない、
という方法がない😨
 
 
 
昔は数日苦しむことが多かったけど、
今はお医者さんに行って
薬をもらえば、
早いうちに楽になるので安心です。
 
 
 
効く薬があるかないかは大事。
それがあればなおる
とわかっていれば、
それほど心配いりません。
 
 
 
クリスマスは
神さまが救いの角を立ててくれた時。
つまり、罪が引き起こす
どんな問題もなおる方法が
与えられた時。
だからほんとうに安心です。
 
 
 
ただし薬の大事なところは
ちゃんと飲まないと。
ってところ。
 
 
 
これはほんとによく効く。
っていくら知ってても、
飲まなきゃ意味がない。
 
 
 
イエスさまの救いは
すべての罪を解決してくれる。
っていくら知ってても、
信じなきゃ意味がない。
 
 
 
1回飲んだはずだけど
またぶり返しちゃった😢
そんなときは、また飲む。
 
 
 
この薬はぜったいに効く。
例外はないし、
副作用もありません。