まさか今日とは

「草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは
永遠に立つ。」
(Ⅰペテロ1:24)
 
 
 
何もない時には
あるかないかわからない空気。
でも、強い風になると、
こわいくらいの力を発揮します。
 
 
 
今回の台風でも千葉とかでは、
秒速50メートル以上っていう
ものすごい風が吹いたそうです。
(時速にすると200キロ越え!)
 
 
 
家や街路樹、電柱やトラック。
ふだんなら、
大きくてしっかりしてて
倒れることなんか考えられないものも
なぎ倒してしまう風。
 
 
 
どこにこんなすごい力があるのかと
ほんとうに驚きます。
たかが空気。とバカにできない。
人にはとても太刀打ちできません。
 
 
 
神さまがいる、という事実は
ふだんの私たちにとって
空気のようなものかもしれない。
あるんだろうけど、
あんまり感じないけど・・・?
 
 
 
でも感じないということは
ないということでは決してない。
その時になって神さまが息を吹かせたら、
この世界のどんなに確かに見えているものも
すべて吹き飛び、散ってしまう。
 
 
 
だから今のうちに、
決して倒れてしまわない、
いつまでも残って
永遠に立つみことばに
しっかりつかまるように。
 
 
 
その時は
まさか今日とは思わなかった
っていう時に来るからね。
そう言っているのです。

標識と勘、確かなのはどっち?

「行くべき道を知らせてください。
私のたましいは
あなたを仰いでいますから。」
(詩篇143:8)
 
 
 
私がよく知っている人に
迷子の名人がいます。
東京駅とか、大きなところに行って
いつもと違う階段を下りたら
もうわからなくなっちゃう。
 
 
 
でも、駅の中には
そこらじゅうに表示・標識があるよね?
そのとおりに行けば
必ず行けるよ。
ちゃんと見ればだいじょうぶ。
 
 
 
なのに、標識を見たけど
やっぱり迷った、って言う。
なんで?
 
 
 
何とその人は、
「きっとこっち」っていう自分の勘と
標識がちがっていたら、
自分の勘を選ぶっていう
衝撃の事実が判明😲
 
 
 
その自信はいったいどこから・・・???
それじゃあ迷子になるわね・・・
 
 
 
神さまのみことばは
私たちの人生の標識。
書いてあるとおりに進んで行けば、
ちゃんと行くべきところに行ける。
 
 
 
まずちゃんと見ること。
見てなきゃ話しは始まらない。
見たらその通りに進むこと。
見てても無視したら意味がない。
 
 
 
見る気持ち、聞く気持ちがあれば、
神さまは必ずちゃんと教えてくれます。

行き止まりの向こう

「驚くことはありません。
…あの方はよみがえられました。」
(マルコ16:6)
 
 
 
「この後、どうなる?!」
映画やドラマでは、
最後の解決の前には
たいていそういうハラハラ場面が
出てきます。
 
 
 
いろいろあって
人の気持ちがすれちがってしまったり、
アクション映画なら
行き止まりに追いつめられそうに
なったり。
 
 
 
そこを乗り越えて解決したときの
安心感と爽快感。
何とも言えません。
 
 
 
十字架にかけられて
死んでしまったイエスさま。
それはもう究極の行き止まりでした。
 
 
 
すべてが終わった。
この先にはもう何も起こらない。
人間にとって「死」は
そういうものです。
 
 
 
でも、イエスさまはちがいました。
完全な行き止まりに見えるその向こうに
まだ道があったのです。
 
 
 
私たちにとっては、
完全な行き止まりに見えるその向こうに
イエスさまは
道を開くことができる。
死でさえも終わりではないのです。
 
 
 
イエスさまを信じて
イエスさまについて行くなら、
これで終わり、
ということは決してありません。

さっきまでの強気も・・・

「同じように、祭司長たちも
律法学者たちと一緒になって、
代わる代わるイエスを嘲って言った。
『他人は救ったが、
自分は救えない。』」
(マルコ15:31)
 
 
 
新しい電化製品を買って、
使おうとしたのに
うんともすんとも言わないから、
これはもう交換だ!と
お客様センターに強気で電話。
 
 
 
申しわけございませんと
謝ってもらえるかと思いきや、
実はこっちのミスだった
―たとえばちゃんと接続してないとか。
 
 
 
そんなときは
さっきまでの強気が恥ずかしい!
声も小さくなって、
隠れる穴を探したい気分。
 
 
 
イエスさまを十字架につけた人たちは、
それこそいい気になって、
なんだよ、人を助けるとか言って、
自分は助けられないのかよ。
と罵詈雑言をあびせかけました。
 
 
 
だけど彼らはわかってなかった。
もしイエスさまが
本当に十字架から降りてしまったら、
自分たちが救われる道も
なくなってしまう、ってこと。
 
 
 
目の前で
イエスさまがかかっている十字架は、
実は自分たちのためだ、ってこと。
 
 
 
やがて神さまの前に立つ時には
それがはっきりわかって
めちゃめちゃ恥ずかしい思いを
しなきゃならないでしょう。
 
 
 
いい気でわかったつもりになって
神さまなんか何だよ、
などと軽々しく言わないように。
 
 
 
神さまの前には、
隠れられる穴は
どこにもないのだから。

発揮できたらきっと最強

「私は主を待ち望みます。
私のたましいは主を待ち望みます。
主のみことばを待ちます。」
(詩篇130:5
 
 
 
行列に並ぶのは得意ですか?
どのくらいの行列なら
並ぼうと思いますか?
 
 
 
最近ものすごいブームのタピオカ。
近くのモールにできた専門店も、
夏の間中ずっと
ものすごい行列でした。
 
 
あれだけの行列だと、
待ち時間もきっとそうとうです。
30分? もしかして40分?
 
 
 
私は行列はあまり得意じゃないから
よく待ってるなーと
感心してしまいます。
 
 
 
日本人は世界の中でも
おとなしく並んで待つのが
とっても得意なんだそう。
外国だったらとっくに騒ぎになってるのに
すごいね、って評判みたい。
 
 
もちろん個人差はあるけど、
ふだんの生活では
並んで待つのが
どちらかと言えば得意な私たち。
 
 
でも、神さまのことばを聞く。
ということについては
どうでしょう?
 
 
みことばを待つのに
今は他の人の番だから並ぶ
なんて必要はないけれど、
ちゃんと聞かないまま
まあこんな感じ?って始めちゃうこと、
けっこう多いのでは。
 
 
 
おとなしく並んでちゃんと待てる。
これはもう賜物レベル。
この賜物、
みことばを聞くのにも
発揮できたらきっと最強です!