じゃまじゃなく逆かも

「もし、ろばがわたしから
身を避けていなかったら、
わたしは今すでに、
あなたを殺して、
ろばを生かしていたことだろう。」
(民数記22:33)
 
 
 
自分がやろうとしていることに
「それはよくないんじゃないの」
と言われるのが好きな人は
たぶんだれもいないでしょう。
 
 
 
そういうことを言ってくるのは
自分のじゃまをする人だから、
きらい。
と思うこともあるかもしれません。
 
 
 
まあ同じ「よくないね」でも、
ほんとうによくないから
っていうよりも、
自分が気に入らないから。
自分の思いどおりにさせようとして。
っていう場合もあるから、
そこらへん見きわめなきゃだけど
 
 
 
「よくないね」は
私のじゃまをしようとする言葉
とは限らない。
 
 
 
もしこのとき
ろばがうずくまってくれなかったら、
バラムは主の使いに
殺されてしまうところでした。
 
 
 
ろばは
バラムのじゃまをしたんじゃなくて、
守ってくれたのです。
 
 
 
「よくないね」は
私たちのじゃまをするんじゃなく
守ってくれる言葉かもしれない。
 
 
 
そのままいったら
神さまから離れてしまうよ。
罪にはまってしまうよ。
滅びにつながってしまうよ。
 
 
 
自分でもきっと
うすうすはわかっている。
 
 
 
だから
ひたすら耳をふさぐんじゃなく、
シャットアウトするんじゃなく、
そこで立ち止まる勇気を持つ。
とっても大事なことです。

私たちが自分で決められる

「主がわたしたちとともに
おられるのだ。
彼らを恐れてはならない。」
「上って行ってはならない。
主があなたがたのうちに
おられないのだから。」
(民数記14:9,42)
 
 
 
神さまがいっしょなんだから
大丈夫。
ヨシュアとカレブが
どんなに一生懸命言っても
みんなは耳を貸しません。
 
 
 
ところがその後、
じゃあもう行けないよ
と言われた時には
無理やり行こうとしました。
そしてさんざんに負けてしまいました。
 
 
 
行けと言われれば、無理、と言い、
行くなと言われれば
やっぱり言ってみる、と言う。
 
 
 
人間て素直じゃなくて
とってもあまのじゃく。
だけどそれで損をするのは自分です。
 
 
 
大事なことは神さまが
いっしょにいてくれるかどうか。
 
 
 
神さまがいっしょにいれば
どんなにむずかしそうに見えても
だいじょうぶ。
 
 
 
でも神さまがいっしょにいなければ
こんなの簡単、ということでも
失敗してしまう。
 
 
 
じゃあ、神さまがいっしょかどうかは
どうやってわかる?
それを決めるのは
私たちがみことばに従っているかどうか。
 
 
 
それは私たちが
決めることができるのです。
ぜひいっしょにいてもらう、
と決めましょう!

なくてはならない必需品

「あなたのみことばは、
私の足のともしび
私の道の光です。」
(詩篇119:105
 
 
前に住んでいた場所。
街灯はいちおうついてるんだけど、
夜になるととっても暗くて
歩くのも気をつけないと
でした。
 
 
雨や雪で水たまりができてても、
そこが水たまりだってことが
よく見えないから
まともにばっしゃりと
足を踏み入れちゃったことも何度か。
 
 
 
自転車で走りながら、
突然穴があっても見えないな、
とよく思ったものです。
 
 
 
無灯火で走って来る自転車が
あったりすると、
ほんとに見えないから、
自分のライトが照らして
突然見えてぶつかりそうになる。
冷や汗ものでした💦
 
 
 
今私たちがこの世で生きているのは、
たましいレベルで見ると、
ちょうどそんな真っ暗な夜道を
歩いているみたい。
 
 
 
足を取られる危険のあるものや、
ぶつかってけがをする危険が
あるものが
よく見えません。
 
 
 
よく見えなくて危険な
世界を歩いているっていうことを
まず忘れずに。
そして、足元を照らしてくれる
明かりをしっかり持ちましょう。
 
 
 
その明かりは? みことば。
次の一歩が確かなら、
その次へと足を進めていける。
私たちにとって
なくてはならない必需品です。

慣れてきたくらいが逆に

「待っていなさい。
私は主があなたがたについて
どのように命じられるかを聞こう。」
(民数記9:8)
 
 
 
どんなことでもそうだけど、
少し慣れてきたくらいが逆に
いちばん気をつけなきゃいけない時。
って言われる。
 
 
 
たとえば運転免許。
取りたての頃は
運転するたび緊張して
めっちゃ注意する。
 
 
 
だけど若葉マークがはずせる頃、
自分も慣れてきて
まあこんな感じでだいじょうぶ、
っていう感覚がつかめた頃が
逆に危ない。
 
 
 
大丈夫かなって思うと、
やっぱり気もゆるむ。
そうして油断が出ると、
思わない落とし穴が待っていることも。
 
 
 
クリスチャン生活にも
同じようなことがある。
クリスチャンになりたての頃は
ある意味気を張って、
気をつけながら一日一日歩む。
聖書も気をつけて読む。
 
 
 
でも慣れてくると、
ちゃんとみことばをチェックしたり
お祈りしたりしないまま
だいたいこんな感じ?
ってやってしまうことがあるかも。
 
 
 
モーセはすごいリーダーだったけど、
自分の判断で答えないで
神さまに聞いてみる、と言った。
これが、モーセが
リーダーっていう大役を果たせた
カギだったのかもしれないね。
 
 
 
だいたいこんな感じ、じゃなくて、
いつもみことばに立ち返り、
お祈りして進む。
この心がけは私たちを、
思わない落とし穴から守ってくれる。

以下、同文、じゃない

「最初の日に
ささげ物を献げたのは、
ユダ部族のアミナダブの子
ナフションであった。
そのささげ物は…
二日目には…三日目は…。」
(民数記7:12~)
 
 
 
かなり季節はずれだけど、
卒業証書の授与。
名前、本文、日付、校長先生の名前。
と読み上げられる。
 
 
 
だけど本文から後を
読んでもらえるのは
先頭の一人だけ。
二人目からは
名前が呼ばれた後は「以下、同文」
 
 
 
確かにいちいち全員分を読んでたら、
いつになったら
終わるかわからないし、
聞いている方も飽きちゃいます。
 
 
 
ところがこの民数記7章。
部族の代表がささげた
ささげ物が書いてあるんだけど、
まったく同じものを献げた12人分を
全部いちいち書いてある。
 
 
 
読んでても、
まったく同じことのくり返し
で、えんえんとなんと89節・・・
読む方としては
うーん、かなりつまらない・・・
 
 
 
なぜなんだろう。考えてみました。
私たちから見たら
同じじゃん?なんだけど、
神さまは前の人と同じでも、
私の分はちゃんと私の分として見てくれる。
 
 
 
内容が同じだから、
以下、同文、じゃなくて、
私がささげた私のささげ物を
ちゃんとしっかり一つ一つ見て、
記憶にとどめてくれる。
 
 
 
それが、私たちの神さま。
今日も私を私として
ちゃんと見ててくれます。「最初の日に
ささげ物を献げたのは、
ユダ部族のアミナダブの子
ナフションであった。
そのささげ物は…
二日目には…三日目は…。」
(民数記7:12~)
 
 
 
かなり季節はずれだけど、
卒業証書の授与。
名前、本文、日付、校長先生の名前。
と読み上げられる。
 
 
 
だけど本文から後を
読んでもらえるのは
先頭の一人だけ。
二人目からは
名前が呼ばれた後は「以下、同文」
 
 
 
確かにいちいち全員分を読んでたら、
いつになったら
終わるかわからないし、
聞いている方も飽きちゃいます。
 
 
 
ところがこの民数記7章。
部族の代表がささげた
ささげ物が書いてあるんだけど、
まったく同じものを献げた12人分を
全部いちいち書いてある。
 
 
 
読んでても、
まったく同じことのくり返し
で、えんえんとなんと89節・・・
読む方としては
うーん、かなりつまらない・・・
 
 
 
なぜなんだろう。考えてみました。
私たちから見たら
同じじゃん?なんだけど、
神さまは前の人と同じでも、
私の分はちゃんと私の分として見てくれる。
 
 
 
内容が同じだから、
以下、同文、じゃなくて、
私がささげた私のささげ物を
ちゃんとしっかり一つ一つ見て、
記憶にとどめてくれる。
 
 
 
それが、私たちの神さま。
今日も私を私として
ちゃんと見ててくれます。