神さまがいっしょにいたら全部うまくいく?

「しかし、主は
ヨセフとともにおられ、
彼に恵みを施し、…。」
(創世記39:21)
 
 
 
こんなことが起きるなんて、
神さまは
自分を助けてくれなかったんだ。
いっしょにいてくれなかったんだ。
 
 
 
こんな声を聞くことが
よくあります。
 
 
 
うまくいくことが
神さまがいっしょにいてくれる
しるし。
良くないことが起こるのは、神さまが
いっしょにいてくれなかったから。
 
 
 
でもそうなんでしょうか。
神さまがいっしょにいたら、
全部がうまくいく?
 
 
 
聖書によればそうではありません。
ヨセフは濡れ衣を着せられて
牢屋に投げ込まれました。
マジ100%の冤罪です。
 
 
 
でもその牢屋の中で、
神さまはヨセフといっしょにいた
というのです。
そして、そこで過ごすために必要な
すべての助けを与えてくれました。
 
 
 
私たちも、どうしてこんなに
うまくいかないんだろう。
つらいんだろう。
と思うような環境に置かれることが
あるかもしれません。
 
 
 
でもそれは
神さまがいっしょにいないしるし
ではありません。
 
 
 
神さまは、そこでも
私たちといっしょにいてくれています。
そして、そこで過ごすために必要な
すべての助けと力を与えてくれるのです。

自分の分は自分限定

「いいえ、分けてあげるには
とても足りません。
それより、店に行って
自分の分を買ってください。」
(マタイ25:9)
 
 
 
十人の乙女のたとえ話。
これを読んで、
油を分けてあげないなんて
賢い娘には愛がなくて
冷たいんじゃないか、
分けてあげればよかったのに。
という感想を言う人がいます。
 
 
 
あなたはどう思いますか。
賢い娘は冷たかったんでしょうか?
 
 
 
たとえ話を読む時に大切なことは
その話が言おうとしている
中心ポイントはなにか。
ということをはずさないこと。
 
 
 
では、このお話の中心ポイントは?
それは、油はそれぞれが
自分の分しか持てない。
ということ。
それは分けてあげることが
できないものなのです。
 
 
 
花婿が来るとき。
それはイエスさまがもう一度来て
この世界が終わるとき。
 
 
 
その時自分がイエスさまといっしょに
この世の労苦がすべて報われる
天国のパーティーに
参加できるかどうか。
その準備をしておくのは自分。
 
 
 
だれかにしておいてもらって
ということはできないし、
だれかのためにしておいてあげて、
ということもできません。
 
 
 
自分の分は自分限定。
だからその時になってあわてないように
ちゃんと準備しておいてね。
そう言っているのです。

次のステップを確かに

「私たちは立って、
ベテルに上って行こう。
私はそこに、
苦難の日に私に答え、
私が歩んだ道で
ともにいてくださった神に、
祭壇を築こう。」
(創世記35:3
 
 
 
ベテルに祭壇を築く。
それは、出発点に返って
神さまを礼拝するということ。
 
 
 
この礼拝には
二つの意味がありました。
一つは、
神さまに感謝をささげること。
 
 
 
助けてほしいときは
それこそ一生懸命お祈りするけれど、
助けてもらって何とかなった後は
あーよかった、よかった、で
そのままにしてしまいがち。
 
 
 
何かしてもらったら
お礼を忘れない。
これ、当然の基本。
 
 
 
感謝をすれば、
神さまがしてくれたことだ
っていうことが確認できて、
自分がやった、っていう勘違いから
守られることができる。
 
 
 
もう一つは、
出発点、原点に立ち戻ること。
 
 
 
運転でも仕事でも、
慣れて来たときが逆に危ない。
油断が出てきやすいから。
信仰も同じ。
だから原点に返って基本の確認。
 
 
 
そうすると、
神さまがいてこその自分、
っていうことが確認できて、
神さまがいなくてもできるんじゃないか
っていう勘違いから守られる。
 
 
 
神さまがいてくれたからできた。
神さまがいてくれるから
これからもできる。
それを確認するのがベテルの祭壇。
 
 
 
それは次のステップを
確かなものにしてくれます。

逃げないで受けて立つ覚悟と力

「ヤコブは自ら
彼らの先に立って進んだ。」
(創世記33:3
 
 
 
自分は攻撃を受けたくない。
被害を受けたくない。・・・
自分を守りたい気持ちは
だれにでもあるもの。
 
 
 
でもそれで
ほんとうは自分が
受けなきゃいけないものを
別の人に受けさせたり、
物でごまかそうとしたりするのは
どうでしょうか。
 
 
 
このちょっと前までヤコブは
ほんとにそんな感じでした。
こわくて逃げたくて
どうしようもなかったのです。
でもそんなヤコブが
今は自ら先頭に立っている。
 
 
 
自分が受けとめる覚悟と力。
それはヤコブが神さまに
ほんとの自分をさらけ出したので、
得ることができたものでした。
 
 
 
ほんとは自分が、
ってわかっていても、
その勇気が持てなくて、
逃げ道はないかと探してしまう。
 
 
 
そんな時にも逃げないで、
受けて立つ覚悟と力。
それは、神さまにほんとの自分を
さらけ出したときに、
持てるもの。
 
 
 
神さまは自分のすべてを知っている。
そして神さまが
なにがあっても
いっしょに受けとめてくれる。
それがわかるから持てる力です。

あれから20年・・・

「主はヤコブに言われた。
わたしは、あなたとともにいる。
…わたしは、あのベテルの神だ。』」
(創世記31:3,13
 
 
 
「あのベテルの神」
というのは、20年前、
ヤコブが家を出る最初のときに
約束を与えてくれた神さま、
という意味です。
 
 
 
「見よ。わたしはあなたとともにいて、
あなたがどこへ行っても、
あなたを守り、
あなたをこの地に連れ帰る。
わたしは、あなたに約束したことを
成し遂げるまで、
決してあなたを捨てない。」
という約束。
聞いたことある人もいるかも?
 
 
 
あれから20年・・・
ヤコブはおじさんのところで、
ほんとうにいろいろ苦労しました。
 
 
 
何度もだまされて、
つらい思いや悔しい思いも
たくさんしました。
 
 
 
でもその間中もずっと、
神さまは約束通り
ヤコブといっしょにいてくれたのです。
 
 
 
人間どうしなら、
「そんな20年も前の約束なんて」
ということがあるけれど、
神さまはちがいます。
 
 
 
神さまはいったん約束したら、
私たちが忘れてても
ずっと覚えて守ってくれる方。
 
 
 
神さまはあなたと
どんな約束をしてくれましたか?
もしかして、
そう言えば忘れてたな
なんてことになっちゃってたりして?
 
 
 
でも神さまは
今日も忘れていません。
ちゃんと覚えてくれています。
そして守ってくれています。