ごほうびはちゃんとある
「見よ、わたしはすぐに来る。
それぞれの行いに応じて
報いるために、
わたしは報いを携えて来る。」
(黙示録22:12)
いつも明るくて前向きだった。
とってもいい人だったのに。
事件や事故があって
だれかがなくなると、
必ずと言っていいくらい、
そういうコメントが流れます。
いい人、がんばってる人は
幸せになれるのが当たり前。
みんながそう思っているんですね。
神さまを信じていない人でも、
自然にそういうコメントが出てくる。
人の心はそんなふうに
生まれつき“正義”を持っています。
みんながあたり前だと思ってるのに、
どうしてそうじゃないんだろう?
そこから葛藤、苦しみ、悲しみが
生まれてくる。
「こんなのおかしいよね?!」
「それはあなたたちが、
わたしをしめ出したからなんだよ。」
と神さまは言っています。
「でもそれは
いつまでもそのままじゃない。。
やがてわたしは
ちゃんと一人ひとりの行いに応じて、
したことにふさわしく報いを与える。
今はまったくのムダ?
と思えているようなことも、
決してむだじゃない。
わたしがちゃんとごほうびを
準備している。
だからがんばって生きることには
ちゃんと意味がある。
だれも見ていなくても、
わたしはちゃんと見ているんだよ。」
神さまはそう言っているのです。
ほんとうにわかるための近道
「私と話していた御使いが答えて言った。
『あなたは、これらが何であるかを
知らないのか。』
私は言った。『主よ、知りません。』」
(ゼカリヤ4:5)
知らないことは知らないと
率直に言う。
これけっこうむずかしかったりします。
自分はちゃんと知っている。
みんなの話題についていっている。
と思われるように。
「え、知らないの?」
と思われないように。
それで仲間はずれにされないように。
いろんな理由で私たちは
ほんとはよく知らないことも
知っているかのように
ふるまってしまいがちです。
そして結局
よくわからないままの
手さぐり状態が続いて疲れる。
相手が神さまでも、
ほんとうはよくわからないけど
ちゃんと納得できていないけど、
わかったような言葉で
お祈りしてしまうことがあるかも?
神さまは私たちがわからなかったり
知らなかったり
信じられなかったりするからと言って
軽蔑したり仲間はずれにしたり
ぜったいにしない。
むしろ、わかりません。
って言えるのを待っていてくれます。
そして、
わかるように教えてくれます。
わからないことはわからない
とちゃんと言えることが、
結局ほんとうにわかるための
近道なのです。
気持ちよく教えてあげられるのは何回?
「それにもかかわらず、
あなたは赦しの神であり、
情け深く、恵み豊かであられ、
彼らをお捨てになりませんでした。」
(ネヘミヤ9:17)
知り合いのご夫婦が開いている
パソコン教室が、
とっても人気で、
特に年齢の高い人たちが
たくさん集まっているそうです。
なぜ人気があるかというと、
「何度同じことを聞かれても、
いやな顔をしないで
何度でも教えてあげるから」
なんだって。
もしあなたが
たとえばスマホのことを
おじさんおばさんたちに教えてあげるとき、
同じことを何回までだったら
気持ちよく答えてあげられますか?
2、3回は忘れても仕方ないな、
と思えても、
同じことを聞かれる回数が増えるうちに、
だんだんイラっとしがち。
教える方が不機嫌になったりすると、
教わる方も聞きにくくなって、
空気がギクシャク。
それで結局あきらめるお年寄りも
たくさんいるらしい。
何度でも心から「いいよ」
って言ってあげるのは、
ほんとうに広い心が必要ですね。
私たちは何回くらい
神さまが言っているとおりに
できなかったでしょう?
きっと、ちゃんとできました
って言えるときの方が少ないくらい。
でも神さまは
「それにもかかわらず」赦して
いいよ、って言ってくれる。
決して私たちを「もう知らない」
って捨てない。
神さまが赦しの神でいてくれる。
なんてホッとすることでしょう。
ふわっと軽々余裕のジャンプ
「私の主、神は、私の力。
私の足を雌鹿のようにし、
私に高いところを歩ませる。」
(ハバクク3:19)
鹿のジャンプ力は
すごいらしい。
助走なしでも1.5mくらいは
楽々飛び上がれるそうです。
鹿って聞くと、
奈良みたいに広くて平らな場所を
思い浮かべる人も多いかもしれないけど、
山で暮らしている野生のシカもいる。
鹿のジャンプは
必死にギリギリ飛んでるんじゃなく、
ふわっと浮いたような余裕のジャンプ。
かなり高いところでも、
軽々と乗り越えていきます。
そんなに飛び跳ねたら
息をはずませてるかと思うと、
そうでもない。
止まったとたんに
涼しい顔であたりを見回しています。
神さまが私たちの足を
鹿のようにしてくれる。
それは、いろんな問題や困難を
息をはずませながら
やっとのことで何とかじゃなく、
障害物なんてないみたいに
ふわっと軽々越えさせてくれる
っていうことを言おうとしているのでしょう。
私たちが自分でトレーニングして
そのジャンプ力を
身につけなさい、
と言っているんじゃありません。
神さまがそうしてくれる。
と言っているのです。
待たせるのは平気だけど?
「もし遅くなっても、
それを待て。
必ず来る。
遅れることはない。」
(ハバクク2:3)
時間の感覚って、
人によってそれぞれ。
だれかと待ち合わせたら、
110分前には行く。
2時間ぴったりに行く。
35分くらい過ぎてから行く。
あなたはどのタイプ?
この感覚が自分とあんまりちがう人が
相手だと、
けっこう大変です。
待たせるのは平気だけど、
待つのはきらい、
なんて人もときどきいますね。
そういう人が
たまたま自分が間に合ったからって
「おそい!」と怒ってたら
いやいやいや、いつもは?
と思ってしまいます。
人としてどうなの?
なんて思う人もいるかもしれません。
でも神さまが相手のときは
どうでしょう?
待たせるのはけっこう平気で、
「あとでね」「いつかね」と言いながら、
お祈りの答えがすぐじゃないと、
「神さまとしてどうなの?」
なんて思っちゃうこと、
ありがちじゃないでしょうか。
私たちは
「すぐ」がベストと思いやすいけど、
そうじゃないかもしれない。
はっきりしているのは、
神さまは必ず答えてくれる。
ってこと。
間に合わないということは
けっしてありません。
神さまの答えが来るのが
ベストのとき。
だから安心して
待っていればいいのです。