最強のコネ
「彼とともにいる者は
肉の腕だが、
私たちとともにおられる方は、
私たちの神、主であり、
私たちを助け、
私たちの戦いを戦ってくださる。」
(Ⅱ歴代32:8)
コネ。
就職や進学をするとき、
いろいろ自分に有利に計らってくれる人。
実力がないからコネで、
っていうのはちょっと?だけど、
そういう知り合いがあったら
何かと心強い。
コネは、強ければ強いほど有利。
「おれ、あの会社の部長に
コネがあるんだぜ」
って自慢してる人は、
社長にコネがある人から見たら
かなりイタいよね。
センナケリブというアッシリアの王は
「おれの国はどこより強い。
これまでおれの国に勝てたヤツはいない。」
と自慢していました。
でもそれは、
「部長を知ってるんだぜ」
って自慢しているようなもの。
「私たちの神さまは、
彼らの神々より偉大なのだ。
だから心配することはない。」
とヒゼキヤ王はみんなに言いました。
神さまを知って信じていることは、
この世界と宇宙の社長に
コネがある。ってこと。
心配する必要はまったくありません。
大船に乗った気分で、
安心してだいじょうぶです。
目をつぶってもまっすぐ
「今、主への恐れが
あなたがたにあるように。
忠実に行いなさい。
私たちの神、主には、
不正をすることも、
えこひいきをすることも、
わいろを取ることもないからだ。」
(Ⅱ歴代19:7)
目をつぶって50歩、
まっすぐ歩く。
目を開けてみると、
まっすぐ歩いたはずが
どちらかに曲がっていることが
多いそうです。
それは、私たちの体の左右が
完全に同じじゃないからだそうで、
目を開けているときは、
まわりを見ながら
無意識に修正してるから
まっすぐ歩けるんだとか。
私たちは、体も心も
どこかしらにかたよりを持っている。
かたよりがあると、
自分ではまっすぐのつもりでも
いつの間にかずれてしまいます。
何かを判断するときも、
自分では公平にと気をつけても、
どうしても
自分よりになってしまうことが多い。
でも神さまは完ぺきにまっすぐな方。
がんばっても曲がってしまう
私たちとはちがい、
ほんとうにまっすぐに
見ることができます。
私たちのことも、
人が見ているところだけでなく、
心の奥底までぜんぶ、
ほんとうにまっすぐに
見ていてくれます。
そしてちゃんと
評価してくれます。
言われなければいいってもんでもない
「主は生きておられる。
私の神が
私に告げられることを、
そのまま述べよう。」
(Ⅱ歴代18:13)
もうちょっとこうした方がいいよ~。
ってだれにも言われないのには、
2つの場合があります。
1つは、こうした方がいい、
と思われるようなことが何もない、
完ぺきなとき。
まあ、めったにないレアケース。
もう1つは、
聞く耳を持たないから言ってもムダ、
と思われるとき。
この時王さまがしようとしていたことに、
ほんとうはみんな
え、やめといた方がいいんじゃない?
と思っていました。
でも、ご機嫌をそこねたくないので、
「いいと思います!
ぜひやってください!」
と口をそろえて言っていたのです。
ただ一人
ほんとうのことを言ったのは、
預言者のミカヤでした。
もちろん人の忠告には
悪意が入っていることもある。
だから何でも言いなりになる
という意味ではありません。
でも、とにかくいったん
聞く耳を持つ。
これは、だれより自分にとってグッド。
人のことばの中に
神さまが示そうとしていることが
あることも多いのです。
それをシャットしてしまったら
損するのは自分。
ただ言われたくないと拒絶する前に、
どういうことかな?
とお祈りして考えてみる心の余裕。
ぜひ持てるといいなと思います。
めげずに積めるわけ
「しかし、あなたがたは
勇気を出しなさい。
力を落としてはなりません。
あなたがたの働きには
報いがあるからです。」
(Ⅱ歴代15:7)
砂浜の砂で遊んだこと
ありますか?
適当に湿っているあたりで
掘ったり、積み上げたり。
トンネルとかお城とか、
けっこうな大作も
意外と簡単にできます。
だけどいちばん気をつけなきゃ
いけないのは、
波が届かない場所で作る。
ということ。
どんな立派な作品でも、
波にやられたら終わりだからね。
積み上げた壁はくずれ、
苦労して掘った穴も
あっという間に埋まってしまいます。
私たちは今
毎日毎日がんばっている。
つらかったり苦しかったりすることも
何とか乗り越えて
一歩一歩ふみしめている。
それが全部、
最後にはくずれるとしたら
こんなに空しいことはありません。
でも、神さまといっしょに
きずき上げたものは、
どんな波〜最後にくる「死」の大波〜
にも決してくずれない。
だから今日積む一段も、
意味があります。
めげずに積みましょう。
どう説明できるかは知らなくても
「あの人が罪人かどうか
私は知りませんが、
一つのことは知っています。
私は盲目であったのに、
今は見えるということです。」
(ヨハネ9:25)
「あなたは生きていますか?」
と聞かれたら、
だれでも「生きています」
と答えるでしょう。
「では、生きていることが
どういうことか説明してください」
と聞かれたら、どう答えますか?
改まって説明と言われると
なかなかむずかしいものですが、
じゃあ説明できなかったら
生きていないか、というと、
そんなことはない。
イエスさまは神さまか。
もしそうなら
納得できるように説明してみろ。
世の中の人はそう言います。
でもイエスさまが神さまであることは
そこにある事実。
それを説明しろというのは、
地球が地球であることを説明する、
というくらい意味がないことです。
この人は、
どう説明できるかは知らんが、
自分にしてくれたことは事実だ、
とはっきり言いました。
知識や理論より強いのは
事実であり経験です。
信じるときに
イエスさまが与えてくれる経験。
それが、イエスさまが神さまであることを
何よりはっきり教えてくれます。
私たちはイエスさまを
どのように経験したでしょうか。
しているでしょうか。