泣かせないで
「エルサレムに近づいて
都をごらんになったイエスは、
この都のために泣いて、言われた。」
(ルカ19:41)
神さまは罪と
同居することができない。
だから、罪があれば
必ずさばかなくちゃなりません。
でも神さまは
さばきたくてさばくのではありません。
できることなら
さばきたくなんかない。
やがて罪のために滅ぼされる都を見た
イエスさまは泣きました。
だれが滅びることも
イエスさまにとっては大きな悲しみです。
だから、
さばかず滅ぼさずにすむために
十字架にかかろうとしています。
それが私たちをさばきにあわせないですむ
たった一つの方法だから。
でも自分の罪がそれほど重大だと
人はなかなかわからない。
イエスさまが十字架にかかると聞いても
「ふーん、だからなに?」
とスルーする人がほんとうにたくさん。
そういう人の姿が
またイエスさまの涙をさそうのです。
私たちはイエスさまを
泣かせていないでしょうか?
イエスさまの愛を踏みにじって
スルーしていることはないでしょうか?
イエスさまが十字架にかかるまで、
あと2日。
ぜひそのことを
自分に問いかけてみましょう。
負のループから
「イエスが
エルサレムの近くに来ていて、
人々が神の国がすぐに現れる
と思っていたからである。」
(ルカ19:11)
イエスさまが
エルサレムに向かうのを見て、
人々は思いました。
「いよいよ私たちの国を
建ててくれるんだ。
ローマの支配から抜け出せるんだ。」
だから熱狂的に
イエスさまを歓迎しました。
ところがそうじゃないらしい
とわかった。
とたんに人々の態度は激変。
そんなやつはいらない。
「十字架につけろ!」
すぐ思ったようにしてくれる。
人が神さまに求めることは
いつもつまり「自分の願い」が
かなうこと。
しかもすぐにそうしてくれること。
そうでないとわかると、
そんな神さまなんて意味ある?
と思ってしまう。
そしてつい4日前と
真逆のことを叫んでも、
自分がおかしいとも恥ずかしいとも
思わない。
人の自分中心は悲しいくらいで
まるで奴隷のよう。
それなのにどんなにがんばっても
「これでいい」
と思えるようにならない。
いつまでたっても「まだ足りない」
と叫びます。
そしてがんばり続けるうちに疲れ果てます。
だからイエスさまは来て
十字架にかかってくれました。
私たちをそんな負のループから
救い出してくれるために。
どうして?
「わたしがしていることは、
今は分からなくても、
後で分かるようになります。」
(ヨハネ13:7)
小さい子どもの握力って
バカにできません。
ぎゅっと握りしめているものを
手放させようとするとかなり大変。
そのまま持ってたら危ないから。
もっといいものをあげたいから。
そんな事情は
子どもはわからない。
だから自分が持っているものを
取られまいとして
必死にがんばるし、
無理に放させようとすると泣き叫びます。
私たちにもそんなところが
あるかもしれません。
どうしてこんなことが起こるの?
なぜ今これを取り上げられるの?
意味がわからない。ひどい。
弟子たちにとって
イエスさまの十字架はまさに
そういうことでした。
イエスさまが死ぬって、なに?
わけがわからない。
イエスさまが死ななければ
自分が救われる道も開かれない。
そんなことは弟子たちには
わかりませんでした。
今はとんでもない
良くないことに見えても、
神さまがすることには
必ず意味がある。
そしてそれは必ず
私たちの益になる方向を向いている。
信じて歩み続けるなら、
やがて必ずわかるよ。
イエスさまはそう言っています。
この事実は今日も変わりません。
春はふつうに来る?
「あなたが土地に蒔く
あなたの種に
主は雨を降らせてくださる。」
(イザヤ30:23)
今年も桜が咲きました。
冬が過ぎると春が来て、
決まった季節に決まった花が咲く。
そんなのあたり前。
と思いがちな私たちだけれど、
それってほんとに当たり前なの?
春はほぼ来るけど
来ないこともある。
来るときも時期がまちまち。
もしそんなだったら大変です。
いつ種を蒔いていいかわかりません。
その年のうちに収獲できるかどうかも
わかりません。
とても困ってしまうでしょう。
人は〇月だから種を蒔こう、
と当然のように種まきをするけれど、
それは季節がちゃんと巡ってきて、
ちょうどいい感じに雨がふるから。
そこは人がどんなにがんばっても
どうにもできないところ。
神さまがそうしてくれてるんだよ。
聖書はそう言っています。
動ける体があり、
食べる食べ物があり、
いつも通りに過ごせるのも
あたり前じゃなくて神さまの恵み。
今日も私たちは
神さまの恵みで守られているのです。
起き上がりこぼし
「見よ、わたしはシオンに
一つの石を礎として据える。
…これに信頼する者は
慌てふためくことがない。」
(イザヤ28:16)
どんなに倒しても、
ゆらゆらした後必ず起き上がってくる
おもちゃ、起き上がりこぼし。
なぜ必ず起き上がるか。
それは中身のいちばん下のところに
重りが入っていて、
重心が低いところにあるから。
どんなに倒しても起き上がる。
逆に言えば倒れられないように
できているのだ。
神さまを信頼するということは
ちょうどこの重りを
私たちの中に据えるようなもの。
人生にはいろんなことがあるから、
前から後ろから横から
次々やって来るパンチで
倒れそうになるけれど、
ゆらゆら揺れてもやがて必ず起き上がる。
それは神さまという重りのおかげ。
パンチを受ければ
グラグラはする。
でもそれで倒されてしまわない。
それは私たちの力じゃなくて、
重りになっている神さまが
そうしてくれるのだ。