allじゃなくてevery

「一人の罪人が
悔い改めるなら、
…大きな喜びが天にあるのです。」
(ルカ15:7
 
 
 
“みんな”を表わす英語に
2つある、
と習ったことがあると思います。
allとevery2つです。
 
 
 
どっちも日本語に訳すと
“みんな”だけど、
もとの英語では
ニュアンスが少しちがう。
 
 
 
allは全体をさすことば。
全部まとめてみんな、だけれど、
everyは一つ一つの集まりの全体。
一人ひとりに注目しています。
 
 
 
神さまが私たちを見るときには、
allじゃなくてevery
となりの人といっしょくた、
ということはないし、
グループや教会単位で、ってこともない。
 
 
 
この私がどうか、
をいつも見てくれています。
 
 
 
私たちが神さまに目を向けるときも、
あーそうなんだ、ふーん来たんだ、
じゃなくて、
ほんとによかった!
と心から喜んでくれます。
 
 
 
今日も神さまは
この私に注目してくれている。
だから、だいじょうぶ。

やがてはみんなが

「おおわれているもので
現されないものはなく、
隠されているもので
知られずにすむものはありません。」
(ルカ12:2



相手によって声も態度も変わる。
そんな女子がいたりします。



同じ女子から見ると、
なぜこの裏表に男子は気づかない?
って思ったりするけど、
そこはたぶん
だまされてでもいい
っていう男心のせいなの?



ちがってたらごめんね。
男子のみんな。



みんながだまされてると思うと、
これじゃいけない、
これは何とかして自分が
わからせなければ、
なんていう気になることもある。



でも、それを
自分がみんなに言い広めたからといって
いいことはほぼない。



長い目で見ると、結局は
自分自身の評価や価値を下げる
ってことになるから。



だから、
自分が何とかしなくちゃとがんばるより、
神さまにおまかせしておくこと。
神さまはどんな裏も表も
全部知っているから。



そして今はだれも気づかない
と思ってることも、
やがてはみんながわかるようにする、
って言ってるから。



私たちには
全部知ってる神さまがついてる。
だから、だいじょうぶ。

やっぱりこわい?

「見よ、神は私の救い。
私は信頼して恐れない。」
(イザヤ12:2



信じてるから何もこわくない。
そう言いきれたら
どんなにいいことか。



でも神さまを信じてたって、
やっぱりこわいものはこわい。
私たちの実感は
きっとそうでしょう。



新しい環境、いろいろな困難、
人の目や思わく、孤独、・・・
私たちがこわいと感じる原因は
それこそいくらでも見つかる。



信じてもこわいなら、
信じることには意味がない?
信じててもこわいとなると、
つらさがいっそう増すから

いっそ信じるのをやめた方がいい?



決してそんなことはありません。
いっそ信じるのをやめる?
そしてどうするのですか?



神さまを信じる以外の方法。
そんなものはどこにもないのです。



神さまは信じる人を救ってくれる。
助けてくれる。
それはまちがいない。
私たちのイメージとはちがう方法で

かもしれないけれど。







だから私たちにできることは
とにかく神さまに信頼すること。
できてないとわかったらそのたびに
何度でもくり返すこと。



神さま、信頼します。

自分がなる

「この三人の中でだれが、
強盗に襲われた人の隣人に
なったと思いますか。」
(ルカ10:36


みんなよく知っている
よいサマリア人のお話。



強盗に襲われて
半殺しになった旅人が
倒れていた道ばたを通りかかったのは
祭司とレビ人とサマリア人。

 

ここでイエスさまは
だれが隣人になったでしょうかと
言っていることに注意。



立場的に言ったら、
隣人は祭司とレビ人。

サマリア人は立場的には

敵対者でした。



でもこれを見ると、
隣人かどうかというのは
立場とは関係ないことがわかります。



隣人かどうかを決めるのは立場じゃない。
どう行動するか。
そして行動する人が隣人になる
のです。



あの人はこっち側。
あの人は向こう側。
私たちはそんなふうに決めがち。







でもイエスさまは、
その人の立場が自分から見てどうか、
ではなく、
その人が今どうか、
を見なさい。と言っている。



そしてこちらから行動を起こしなさい。
そう言っているのです。
イエスさまも自分が言ったとおり、
先に行動してくれました。

ピンチはチャンス

「ウジヤ王が死んだ年に、
私は、高く上げられた御座に
着いておられる主を見た。」
(イザヤ6:1
 
 
 
これがあれば
自分はだいじょうぶ。
この人がいれば自分は安心。
と思っていたのに、
それがなくなってしまったとき。
 
 
 
それは私たちにとって
一大ピンチです。
 
 
 
これからどうしたらいいんだろう。
自分はどうなってしまうんだろう。
そういう心配が
心にわき上がって来るでしょう。
 
 
 
預言者イザヤにとって、
ウジヤ王さまはそういう存在だった。
でも王さまは死んでしまいました。
いやいやいや、どうしよう?
 
 
 
そのときイザヤは
神さまを見ました。
ウジヤ王さまがいたときには
見えなかった神さまが見えたのです。
 
 
 
あてにできると思っているものが
ある間は、
そればかり見てしまうから
神さまが見えないことが多い。
 
 
 
それがなくなって初めて、
そうか、神さまがいたんだ、
ってわかる。
 
 
 
あてにしていたものがなくなる。
それは大ピンチ。
でも同時にものすごく大きい
チャンスでもあるのです。
 
 
 
何がなくなったとしても、
神さまがいる。
それがわかることは
私たちにとっていちばん
“だいじょうぶ”な状態だから。