温室の外

「次が、主が残しておかれた
異邦の民である。
主がそうされたのは、…
戦いを教え、知らせるためであった。」
(士師3:1,2
 
 
 
温室。
温度や湿度がいつでも整っていて、
成長の妨げがない、
ぬくぬくの環境。
 
 
 
外が寒くても風が強くても
まったく関係ないので
心配いりません。
ストレスフリー。それが温室。
 
 
 
そのおかげで
もともとの季節じゃないときに
フルーツやお花を
楽しむことができます。
 
 
 
ただそれは温室の中限定の話。
何の負荷もかからないために
だれかがものすごく手をかけている。
 
 
 
何の苦労も悩みもなく
育った人のことも
温室育ち、
なんて言うことがありますね。
 
 
 
それはそれで
恵まれたことだけれど、
その人自身の力じゃない、
というところがネック。
 
 
 
そういう環境なら
だれでもうまくできるでしょう。
でもその環境を整えてくれる人が
いなくなって、
自分一人になった時には…?
 
 
 
少しずつ戦いながら
戦い方を知り、
抵抗する力、負けない力をつける。

プラグ点検

「あなたの信仰が
あなたを救ったのです。
安心して行きなさい。」
(ルカ8:48




しばらく前の朝。いつものように
コーヒーメーカーをセットして
スイッチを入れたけど、
電源ランプがつきません。



コンセントをさし忘れちゃった、
ってことはときどきあるけど、
よく見てもコンセントは
ちゃんとささってる。



あれ、こわれちゃった?
いったん抜いてさし直してみたら
プシュッという音。
そしてこげたようなにおい。


 

どうやら
コードの先っちょについてる
さし込みパーツ電源プラグが
だめになってたらしい。



つなぎのかんじんなパーツが
こわれたから
電気を取り込めなかったんです。



神さまの力を
私たちの心の中に取り込むための
プラグは信仰。



神さまがいること、
神さまが力を持っていることを
知っていても、
信仰というプラグでつながらなければ
その力を受けることはできません。



どうもうまく力が流れてこない。
というときは、プラグの点検。



わかってるけど
どうもうまく信じられない。
ということもあるでしょう。
そしたらどうする?



だめじゃん、てやめたら
そこで終わり。



信じられていなかったら
そこで改めて信じる。
それをくり返すこと。
それしかないのだから。

どっちが先

「与えなさい。そうすれば、
あなたも与えられます。
…あなたがたが量るその秤で、
あなたがたも
量り返してもらえるからです。」
(ルカ6:38
 
 
 
私と相手。
与えるのはどっちが先か。
イエスさまによれば、私。
ゆるすのも私が先。
 
 
 
さばくことについては、
やめるのはどっちが先か。
これもイエスさまによれば私が先。
 
 
 
でも実際は
この逆の順番で考えている人が
多いかも。
 
 
 
与えてくれたら私も与える。
ゆるしてくれたら私もゆるす。
そっちがさばくのをやめたら
こっちもやめる…。
 
 
 
イエスさまは
「自分がしているとおりに
されるんだよ。
だからしてもらいたいなら
自分が先にしないとね。」
と言いました。
 
 
 
「だれもしてくれない」
という思いが出てきそうになったとき、
一度たちどまって
自分はやっているのかな?
と考えてみる。
 
 
 
まず自分がする。
それはいざやろうとすると
けっこうむずかしいけれど、
イエスさまが力を与えてくれる。
 
 
 
イエスさまは自分が言ったとおり、
私たちの罪を
先に全部ゆるしてくれたから。
私たちが愛していなくても
先に愛してくれたから。

有言実行

「誓って果たさないよりは
誓わないほうがよい。」
(伝道者の書5:5
 
 
 
有言実行。
言ったことは責任をもって
実行する。ということ。
言ったことはやる。
 
 
 
有言実行の反対語は不言実行。
文句や理屈を言わないで、
やるべきことをやる。
 
 
 
どっちも「やる」ことが大事
ってことを言っています。
人に信用してもらうにも
ことばより行動が大事。
 
 
 
言うことは立派だけれど
自分では何もしない。
これは最悪。
するつもりがないなら言わない方がいい。
自分にはできないことも
言わない方がいい。
 
 
 
いじめがあったときなんかも
「なぜ気づかなかったのか」と
まわりにいた人を責める人がいるけれど、
「それを言っているあなたは
そこにいたら気づけたんですか?」
って思わなくもない。
 
 
 
自分にするつもり、覚悟があるかどうか、
できるかどうか
よく考えてから発言する。
とても大事なことです。
 
 
 
みんなが心がければ

ほんのちょびっと

「神のなさることは、
すべて時にかなって美しい。
…しかし人は、
神が行うみわざの始まりから
終わりまでを
見極めることができない。」
(伝道者の書3:11
 
 
 
目の前に起こっていることに
目をそらさず
きちんと向き合うこと。
 
 
 
一方で目の前のことだけを見て
すぐ有頂天になったり
必要以上に落ち込んだりしないこと。
 
 
 
私たちの生活では
この両方のバランスがとても大切。
 
 
 
特に自分が見ていることや
聞いていることは一部にすぎない
という謙虚な心は
なくてはならないもの。
 
 
 
だれかの言葉や行動には
なぜそう言ったのか、
なぜそうしたのか、
見えないところの理由や事情が
きっとたくさんある。
 
 
 
それを知ろうとしないで
自分が見たこと聞いたことだけで
いいとか悪いとか決めつけるのは
愛のないこと、高ぶり
と言われても仕方ない。
 
 
 
神さまに対しても同じ。
私たちが見ているのは
神さまがしていること全体から見たら
ほんとうにごくごく一部。
 
 
 
そこだけを見て
いいとか悪いとか判断しない
謙虚な心を忘れないように。
 
 
 
神さまはすべてのことを
時にかなって美しく
⇒うまくいくベストタイミングで
する方、することができる方。
 
 
 
私たちのことも
必ずそうしてくださる。