あっちとこっち

「あなたがたの中から、
その聖絶の物を滅ぼし尽くして
しまわないなら、
わたしはもはや
あなたがたとともにはいない。」
(ヨシュア7:12
 
 
 
あっちを立てれば
こっちが立たず。
両方手に入れたくても
その二つを同時に持つことは不可能。
そういうことが
私たちのまわりにはけっこうあります。
 
 
 
たとえば、
甘いもの・脂っこいものを食べたい。
と、太らずに健康でいたい。
 
 
 
甘いもの・脂っこいものを食べたいなら
太らないこと、健康でいることは
あきらめなければならないし、
太らず健康でいたいなら、
食べたいだけ食べることは
あきらめなくてはなりません。
 
 
 
だからどっちかを手放す。
それは自分にとってどっちが大事か
を選ぶということ。
 
 
 
神さまが私たちといっしょにいてくれる
ということと、
私たちが罪を持ち続けていること。
これは、両立できません。
 
 
 
神さまにいっしょにいて
助けてもらいたいなら
罪から離れる。
これがなくてはならない条件。
 
 
 
それは具体的に言えば、
これは神さまはだめって言うだろうなー
っていうことをやらないこと。
やっているならやめること。
 
 
 
とってもやりたいことであっても
自分のためにならないことがある。
 
 
 
やりたいことをやっているだけでは
私たちはほんとうに幸せにはなれない。
認めたくないかもしれないけど、
認めなければなりません。
それがだれでもなく自分のためだから。

たった一つの安全地帯

「彼女は『おことばどおりにしましょう』
と言い、二人を送り出した。
彼らは去り、
彼女は窓に赤いひもを結んだ。」
(ヨシュア2:21



しるしの赤いひも。
それは、そのしるしがついている
窓の家にいる人は
殺してはいけない、というしるし。



エリコの城壁に立て込んである家に
住んでいた遊女ラハブと
その家族は、
エリコが滅ぼされたとき
殺されずに救い出されました。



救われるための条件は、
その赤いひもを結んだ窓の家の中にいる
ということ。
それを知りながら外に出ていたら、
殺されても仕方ありません。



この赤いひもは、
イエスさまの十字架の血の意味を
教えてくれます。







神さまはやがてすべての人を
その人の行いに応じてさばく、
と言っています。
神さまのさばきを逃れられる人は
だれもいません。



でもその時に、
イエスさまの十字架の血
というしるしをつけていれば、
あなたのことは滅ぼしません。
と言ってもらえる。
これがたった一つの安全地帯。



あなたの心の窓には
イエスさまの十字架の血のしるしが
ちゃんとついていますか。
しるしをつけるというのは
イエスさまが自分の身代わりに
十字架にかかってくれたと信じること。



いつの間にかはずれちゃった、
ということにならないように。
しっかり確かめましょう。

むずかしいことは何もない

「まことに、私が今日あなたに命じる
この命令は、あなたにとって
難しすぎるものではなく、
遠くかけ離れたものでもない。」
(申命記30:11
 
 
 
学校でも仕事でもいいんだけれど、
これを何日までにまとめる、
という課題が出たとします。
 
 
 
その作業に必要な労は同じ。
だけど、自分がやりたいか
それともやりたくないかで、
感じる大変さかげんが
ぜんぜんちがう。
 
 
 
やりたいことなら苦労なくできる。
でもやりたくないと思っていると
果てしなくいやなことに感じて
やり終えた時にはものすごく疲れる。
 
 
 
みことばに生きることを
むずかしい、と感じる人が
たくさんいます。
 
 
 
実は神さまが言っていること
そのものは、
むずかしいことは何もないし、
本気でやろうと思えば
だれでもできる。
 
 
 
じゃあ、なぜむずかしいのか。
それは人の心が、
「言われたとおりにしたくない」
という基本姿勢を持っているから。
 
 
 
実は人にとって
いちばん大きな課題は、
「言われたとおりにしたくない」
というその心。
 
 
 
喜んで言われたとおりにできる。
心がそう変えられたら、
私たちの人生そのものが
大きく変わります。
大変さかげん、いやさかげんも
ぐっと減るでしょう。
 
 
 
神さまは私たちの心を
そういう心に作り変えてくださる方。

どっちが一方的?

「信仰の弱い人を受け入れなさい。
その意見をさばいてはいけません。」
(ローマ15:1
 
 
 
クリスチャンて損だよね。
…そんな声を聞くことがあります。
 
 
 
なにかいやなことをする人にも、
だめ、って言えないんでしょ。
言いたいこともがまんして
受け入れなきゃいけないんでしょ。



そんなのって、
こっちだけが一方的にがまんして
損じゃん?



受け入れるだけじゃなく、
ゆるしたり、愛したりすることも
クリスチャンが一方的に
しなきゃいけない、
と思っている人がいるかもしれません。



もしそう感じるなら、
自分がだれかを受け入れる前に、
ゆるす前に、愛する前に、
イエスさまがどれだけ自分自身をゆるし、
受け入れ、愛してくれているかを
忘れてしまっているのかも。



人と自分を比べて
この世界のものさしではかったら、
確かにこっちが損、
っていうこともあるかもしれません。



でもどのくらい一方的かを言うなら、
イエスさまが私にしてくれたこと
の方がずっとずっと一方的。



まず私たちがイエスさまに
ひたすら一方的にしてもらっている。
そのことがわかればあなたも
喜んでできるよ。
イエスさまはそう言っているのです。

ものさしは1本で

「あなたには、完全に正しい重り石と、
完全で正しい升がなければならない。
あなたの神、主が
あなたに与えようとしておられる
その土地で、
あなたの日々が長く続くように
するためである。」
(申命記25:15
 
 
 
完全に正しい重り石と
完全で正しい升・・・
いったいなんのこと?
 
 
 
それはつまり、
いつも同じものさしで
すべてのことをはかりなさい。
っていうこと。
 
 
 
自分や自分が気に入った人には
ちょっと得をさせてあげよう。
敵対している人やきらいな人は
ちょっとくらい損させちゃえ。
 
 
 
そんな気持ちで
人はちょっとした操作をしがち。
もちろんみんなにはわからないように
バレないくらいにちょっとだけ。
 
 
 
だけどそういう
二重のものさしを使うことは
だめなんだよ。
と神さまははっきり言っています。
 
 
 
そんなことしてるわけない
と思うかもね。
だけど、わざとじゃないとしても、
自分や好きな人には甘く。
他人やきらいな人には厳しく。
この二重ものさしは
いつの間にか心に入りこんでくる。
 
 
 
平らな心ですべてを見る。判断する。
なかなかむずかしいことだけれど、
お祈りしながら
神さまに助けてもらいましょう。
それが自分自身の祝福につながる。
今日のみことばはそう教えてくれています。