せっかく一生懸命やるなら
「私は、彼らが神に対して
熱心であることを証ししますが、
その熱心は知識に基づくものでは
ありません。」
(ローマ10:2)
この食べ物がお肌にいい。
老化を防いでくれる。
〜〜にきく。
こんな情報が、TV番組や
ネット上で流れることがあります。
それで一生懸命食べる人もいるけど、
そのうちに
「あれはまちがいだった。実は逆。」
なんてことになることも
けっこうあったりするから要注意。
こういううわさだから。
だれかが言っていたから。
それでよく確かたり考えたりしないで
一生懸命やっていても、
それがまちがった情報、知識だったら
むなしく悲しい。
これが神さまのため。
自分が正しいと認められるため。
そう思って一生懸命
律法を守ろうとする人たちがいる。
でも律法を守ったら
神さまが正しいと認めてくれる
というのはまちがった知識。
神さまが正しいと認めてくれるのは、
イエスさまの十字架が
自分の身がわりだったと信じる信仰。
ただそれだけ。
一生懸命にならなきゃいけないのは
その信仰をどうやって守るか
ということ。
せっかく一生懸命やるのに
まちがってることだったら
とても悲しいから気をつけてね。
パウロ先生はそう言っているのです。
どうしよう、の前に
「あなたが敵と戦おうと出て行くとき、
馬や戦車や、
あなたより多い軍勢を見ても、
彼らを恐れてはならない。
あなたをエジプトの地から連れ上った
あなたの神、主が
あなたとともにおられるのだから。」
(申命記20:1)
私たちにとって、自分より多い軍勢。
こっちが持っているより
たくさんの馬や戦車。
自分にはとても太刀打ちできそうもない敵。
それは何に当たるでしょうか。
毎日のこなさなきゃいけない課題や
神経を使わなきゃいけない人間関係などが
思い浮かぶ人もいるでしょう。
クリスチャンということを考えると
光を輝かせて証しを立てる。
この福音をだれかに伝える。
教会の奉仕をする。
…などのこともそんなふうに感じることが
あるかもしれません。
それは自分にとっては
とても歯が立たない巨人のようなもの…。
そして、きっとうまくいかなくて
失敗してしまうだろう自分を
思い浮かべると、
恐れが心にわいてきます。
だけど私たちには神さまがついている。
神さまは私たちを罪から救ってくれた方。
罪の力から解放してくれた方。
死んで滅びなきゃいけなかった私たちを
永遠に生きることができるように
してくれた方。
「あなたをエジプトの地から連れ上った
あなたの神、主」
というのはそういうこと。
だから恐れなくてもいい。
自分一人でどうしよう、どうしよう、
と悩む前に
神さまに助けを求める。
本気でひたすら求める。
助けてくれるというのは
楽ができるということでは
必ずしもないけれど、
神さまは必ず助けてくれます。
今日も助けてくれますよ。
たったそれだけ
「イスラエルよ、
今、あなたの神、主が、
あなたに求めておられることは何か。
それは、ただあなたの神、主を恐れ、…。」
(申命記10:12)
家族、学校や会社、地域など、
私たちは自分が生きているコミュニティーの
いろんな求めに応えながら
生きています。
そのコミュニティーで認めてもらうため、
受け入れてもらうために
少なくともこれだけは守る。
そういうことがいろいろありますね。
はっきりわかるものもあるし、
口には出さないけど
無言のプレッシャーになって
くるものもあります。
そんなとき、
ほんとは要求されていないのに
要求されていると思い込んでしまうと
とてもつらいことに。
神さまが私たちに求めていることは何か。
もっとまともな人間にならなければ?
もっと立派なことをしなければ?
あの人はちゃんとした人、
って言われるような人間にまずならないと
と思っている人がたくさんいます。
もしそれがほんとなら、
神さまに近づくことができる人と
できない人ができてしまいますね。
もしかすると、だれも近づけない
ってことになってしまうかもしれません。
でも実は、
神さまが求めていることはたった一つ。
主を恐れること。
これだけ。
これならやろうとすればだれでもできます。
これさえ守れば、
あとのことは全部神さまがやってくれる。
実はとても心が広くゆる〜い方。
それが神さまなのです。
自分のペースで
「あなたの神、主は
これらの異邦の民を徐々に
あなたの前から追い払われる。
…野の獣が増えて、
あなたを襲うことのないように
するためである。」
(申命記7:22)
すべての人は平等。
一人ひとりの価値にちがいはなし。
でも今はその平等が
え?っと思う感じに主張されることが
多いような気が。
確かにみんな平等。
だけどそれは全員がまったく同じことを
できる、しなきゃならない、
という意味ではないと思うよね。
みんな平等だけどみんなちがう。
持っている力や能力もちがう。
だからそれぞれができることをして、
お互いに補い合う。
それでいい。
神さまはイスラエルの人たちのキャパを
ちゃんと見て、
対応できる力に応じて
徐々に、少しずつ敵を追い払われた。
少しでもたくさん、少しでも早く、
と思いがち。
世の中はそれを求めることが多いから、
その方がいいことなんだと思いがち。
でもそうじゃない。
自分が持っているものに応じて
自分のペースで。
それがどれくらいかは
神さまがいちばんよく知っている。
どうしてあの人とちがうのか、
ということにイライラするんじゃなく、
神さまが導いてくれるままに進む。
それがいちばんいい。
直接会う
「あなたは自分がエジプトの地で
奴隷であったこと、
そして、あなたの神、主が
力強い御手と伸ばされた御腕をもって
あなたをそこから導き出したことを
覚えていなければならない。
それゆえ、あなたの神、主は
安息日を守るよう、
あなたに命じたのである。」
(申命記5:15)
人との親しさは
どうやって決まるでしょうか。
今は一口に人とつながると言っても、
いろいろなつながり方があります。
離れていても
ラインでつながっていれば、
声だけじゃなく顔も見れますね。
でもなんと言ってもやっぱりいちばんは、
直接に会うこと。
いっしょに過ごす時間は、
人との関りの中でとても大事です。
「忘れないよ!」卒業で別れるとき、
こんなことばが飛び交うけれど、
その後会うチャンスがほとんどなければ、
やっぱり何となく遠くなっていく。
神さまも同じ。
心で覚えている、ぜったいに忘れない!
と決心しても、
ずっと会わなければ、
何となく遠くなっていってしまいます。
神さまと会う、ってどこで?
それが今の私たちにとっては教会。
なぜ毎週?と思うかもしれません。
でも神さまがそう決めたということは、
それがたぶん
私たちにとっていちばんいい間隔
なんでしょう。
そのために安息日はあるんだよ。
⇒そのために日曜日はあるんだよ。
みことばはそう言っているのです。