うっかり発言はないから
「わたしは
わたしの契約を汚さない。
唇から出たことを
わたしは変えない。」
(詩篇89:34)
先週、水泳の池江璃花子選手が
白血病になったというニュースが
世界中を駆け巡りました。
次々に日本記録を更新して、
東京オリンピックでもきっと活躍する
って期待されていた池江選手。
治療は大変だと思うけれど、
ぜひ1日も早くよくなって、
また元気な姿を見せてくれることを
祈るばかりです。
そんな中、五輪担当大臣が
「がっかりした」なんて言っちゃって、
別のザワザワが起きました。
「ひどすぎる!」
っていう声が集中したから、
おわびして発言を撤回(取り消し)
したんですね。
最近、いろんな大臣さんが
うっかりの発言をして非難されて
やっぱり取り消します、
って言ってるのをよく聞きます。
1度口にしてしまった言葉は
いくら取り消しますと言っても、
消すことはできないし、
そもそも消さなきゃいけないようなことは
言わないようにしてほしい。
自分のことばを取り消さなきゃいけない人が
大臣、っていうのも
ちょっと困ります。
神さまは1度口にしたことを
あれはまちがいだった、
と取り消すことはぜったいない方。
取り消さなきゃいけないようなことを
言うようなことも
ぜったいないお方。
“神さまが言った”
そのことが確かなら、
どれだけ信用しても心配ありません。
安心です。
私たちを守るため
「信仰に入った異邦人に関しては、
偶像に供えたものと、血と、
絞め殺したものと、
淫らな行いを避けるべきであると
決定し、すでに書き送りました。」
(使徒21:25)
これだけはやっちゃだめだよ。
とエルサレム教会が
異邦人に伝えたリスト。
偶像、血、絞め殺したもの、
と並んで
淫らな行いがあがっていることに注目。
淫らな行いって何でしょう?
それは、性的にゆるんでいること。
やりたければいいんじゃない?
って、欲望にまかせて
体の関係を持つことです。
イエスさまが
人の心の中から出てくる悪いものの
最初にあげたのも、この淫らな行い。
今私たちが生活している社会では、
ここがグダグダ。
いいんじゃない、べつに。
っていう考え方がふつうであるかのように
思い込み思い込ませている。
でも聖書はだめだよ、って言っています。
なぜでしょうか?
私たちをしばりつけるため?
がまんさせていじめるため?
そうではありません。
その思いに身を任せることは
人を汚すから。
たくさんの人が傷つくことにつながり、
やがて社会そのものが
グダグダになるからです。
それは私たちを苦しめるためではなく、
私たちを守るための
聖書の教えなのです。
まぎれられる?
「人々は、
それぞれ違ったことを叫んでいた。
実際、集会は混乱状態で、
大多数の人たちは、
何のために集まったのかさえ
知らなかった。」
(使徒19:32)
みんなが集まって叫んでるから、
取りあえず行って、いっしょに叫ぶ。
人は、たくさんの人が集まって
もり上がっていると、
つられてしまうことがあります。
群集心理。
たくさんの人が集まったときに、
興奮状態が高まって、判断力が低くなり、
勢いにまかせた無責任な行動をとること。
ハロウィンのときに渋谷で起きた
車を横倒しにしちゃったり、
券売機に水を入れてこわしたり、
なんていう事件もこれですね。
SNSで起きていることも、
これに近いんだろうなと思います。
自分が特定されないから
興奮にまかせてヒートアップすることば。
数が多いとだれも止められないような
力になって、
ただの軽いノリのつもりが
れっきとした犯罪につながることも
あるから、とっても危険です。
たくさんの人にまぎれれば
自分がだれだかバレない。
でも神さまは
どんなにたくさんの人の中にいても
私がどこにいるか知っている。
ちゃんと考えて、よく確かめて、
自分だってことを
みんなが知ってもいいような
ことばと行動。
神さまを意識すれば
自然の結果でついてきます。
生きてるかぎり
「旅路にある間、
イスラエルの全家の前には、
昼は主の雲が幕屋の上に、
夜は雲の中に火があった。」
(出エジプト40:38)
家族とたとえば
モールに買い物に行ったとき、
ずっといっしょに行動することもあるけど、
行きたいお店がそれぞれちがうから
別行動、ってこと、よくあると思います。
今はスマホがあるから
何も問題ないけれど、
前は終わったらどうするか、
ちゃんと決めておかないと大変でした。
我が家の連れは、
どこへ行くとも言わずに消えてしまう。
だから、用事が終わると
捜さなくちゃなりません。
買い物より連れを捜す方が
時間がかかっちゃう。
そんなことがしょっちゅう。
私たちが神さまに聞きたいと思ったとき、
まず神さまがどこにいるか
捜さなくちゃならないとしたら
大変です。
なかなか見つからないから
もういいか、
なんてことにもなりかねないかも。
でも神さまは
私たちがこの地上で
クリスチャン生活をしているかぎりずっと
離れることなくそこにいてくれます。
聞こうと思ったらすぐ聞ける。
ぜったいにいなくならない。
いつもそこにいるってわかってる。
すごくいいです。
完ぺきだから
「この世界とその中にある
すべてのものをお造りになった神は、
天地の主ですから、…
何かが足りないかのように、
人の手によって仕えられる必要も
ありません。」
(使徒17:24,25)
自分のことは自分で。
なるべくそうできるのが
自立した大人の証し。
そうは言いながらも、
私たちはだれかのお世話にならずに
生きていくことはできません。
自分は一人だって生きていける。
反抗期の頃には
そんなふうに思うこともあるけれど、
世の中がちゃんと見えてくれば、
決してそうではないことが
よくわかります。
私たちはいろんな人に助けられて、
それこそいろんな人の“おかげで”
生きています。
でも神さまはちがいます。
神さまは、人間が仕えなければ
困ってしまう、
などということが決してないお方。
私たちは、
私たちが仕えたりささげたりしないと
神さまがやっていけないから
仕えているのではありません。
第一、私たちが何かやってあげないと
困るような神さまが、
私たちを助けることなどできるでしょうか?
すべてのものを造り、
すべてを持っている完ぺきな方。
だから私たちは礼拝して
お仕えするのです。