「しかし、主はアナニアに言われた。
『行きなさい。…』
そこでアナニアは出かけて行って、
その家に入り、
サウロの上に手を置いて言った。」
(使徒9:15~17)
みんなによれば、
サウロはクリスチャンにとって
ものすごい危険人物。
出会っちゃったら何をされるかわからない。
見つからないように気をつけないと。
でも神さまはアナニアに、
そのサウロに会いに行きなさい、
と言う。
みんなが言ってることと
神さまが言うことがちがう。
さあどうしよう…。
アナニアは、
たぶんほんとは、行きたくなかった。
それにきっと、ものすごくこわかった。
でも神さまのことばにしたがって
出かけて行った。
そして迫害者サウロは
みごと使徒パウロに変身!
‟目からうろこ“のもとになった出来事。
今の私たちにとっては、
アナニアよりも使徒パウロの方が
ずっと有名。
でも使徒パウロ誕生のかげに、
勇気をもって神さまのことばに従った
脇役アナニアがいたのだ。
他の人は気がつかないような
ひっそりした小さい行動であっても、
神さまのことばに従う行動は
すばらしいみわざの第一歩かもしれない。
今日も勇気をもって
神さまのことばの方をえらぼう。
生きてることば
「私たちに与えるための
生きたみことば・・・。」
(使徒7:38)
生きてるか死んでるか。
=いのちがあるかないか。
ちょっと見ただけじゃ
わからなくても、
そのちがいはとっても大きい。
あまりにも大きい。
この世界でいちばん大きいちがい、
と言ってもいいかもしれない。
いのちがあって生きているものは
変化や成長があるけれど、
いのちがないものは
そこにあるまま。
何の力もなく、やがてはくちていく。
神さまのことばは生きていることば。
だから力がある。
何もなかったところに
いのちを生じさせる力。
いのちを持っているものを、
成長させる力。
そして、人の心を変える力。
私たちも、こうしたら?
と人に言葉を投げかけたり
こうしよう!と自分に言葉を投げかけたり、
することがあるかもしれない。
だけど、その力のなさにがっかりする
私たちのことばは、
人を変えることができないし、
自分のことさえも変えることができない。
神さまのことばだけが人の心を変え、
力を与え、立ち上がらせ、
新しくすることができる。
そして私たちを天国に導くことができる。
神さまのことばから離れないで
歩んでいこう!
イエスさまオンリー
「この方以外には、
だれによっても救いはありません。」
(使徒4:12)
イエスさまにしか救いがない。
っていうこのみことばを読んで、
聖書はそう言うだろうけど、
それはキリスト教の経典だからで、
この世の中に方法はたった一つだけ、
って、そんな言いきっちゃっていいの?
そう思う人もいるかもしれません。
ここでカギになるのは、
「救い」が何のことを言ってると
思っているか、ってこと。
何となく気持ちが楽になる。
いろいろ大変なことがある世の中でも
心騒がせずに過ごせる平安が与えられる。
困った時にお祈りすると助けてもらえる。
・・・そういうことが救いだと思うなら、
確かにイエスさま以外にも
何か方法はあるかもね。
でも聖書が言っている救いというのは、
私たちが、自分がやってしまった罪、
持っている罪のせいで
地獄に行かなきゃならないことから
救ってくれる。
地獄に行かなくてもいいようにしてくれる。
そういう意味。
気持ちが楽になる。平安を持てる。
助けてもらえる。・・・こういうことは、
その救いをもらった時についてくる
“おまけ”みたいなもの。
どんなに心穏やかに
暮らせたからって、
死んだら地獄に行かなくちゃならなかったら
たいへん。
私たちをそこから救ってくれるのは
まさにイエスさまオンリー。
それは、はっきり言いきれる
事実なのです。
くつわで無理やり?
「わたしは、あなたが行く道で
あなたを教え あなたを諭そう。
あなたに目を留め 助言を与えよう。
あなたがたは分別のない馬やらば
のようであってはならない。
くつわや手綱、
そうした馬具で強いるのでなければ
それらは あなたの近くには来ない。」
(詩篇32:8,9)
馬やろばは、
人のためにいろいろしてくれる
役に立つ動物というイメージがあるけれど、
自分の方から人間に近づくことは
ないらしい。
だけど物を運んだり畑を耕したり、
力が必要な仕事をするのに
人の方が、馬やろばの助けが必要だった。
“馬力”っていうことばがあるけど、
重さ75キロのものを毎秒1メートル動かす力が
1馬力なんだって。
馬ってかなりの力持ち。
だから無理やりにでも
その力を利用したかったんだね。
そのために使うのがくつわや手綱。
口に金属のくつわをはめて、
それに手綱を結ぶ。
手綱を引くと口が痛いから、
その方向に馬が進む、というわけ。
神さまが私たちに近づいて
「こうしたらどう?」と言う時には、
人が馬やろばを使う時のように
私たちを利用して使うため、ではない。
それはほんとうに私たちのため。
私たちが困ることがないため。
私たちの益のため。
いつでも私たちを愛する愛から発している
アドバイス。
だから馬のように痛いから仕方なく、
じゃなくて、
自分から耳を傾けよう。
今日も教えてくださいという心で
歩めば、
神さまは喜んで教え導いてくれる。
神さまナビ
「昼はこの雲の柱が、
夜はこの火の柱が、
民の前から離れることはなかった。」
(出エジプト記13:22)
ぜんぜん知らない土地に
行かなくちゃならないとき。
今ではナビというものがあるから、
心配する人はあんまりいないかもね。
でもナビなんて便利なものが
なかったころは、大変です。
もし前もって調べたかったら
まず本屋さんに行って地図を買って来て、
ってところから始めなくちゃならない。
たくさんの人に聞きながら
やっとたどり着く、
なんてことがよくありました。
ナビはとってもありがたいものです。
神さまを信じてクリスチャンになるのは、
知らない土地に行くような感じが
あるかもしれません。
分かれ道に来た時、
どっちを選んだらいいか、
自分ではわからなくて迷うことも
あるでしょう。
でも私たちには完璧なナビが
ついててくれる。
後ろに戻らず前に進み続けるために、
昼も夜も離れることなく、
どんなときも道を教えてくれる神さまナビ。
ナビにとって大事なのは
電波状態がいいこと。
神さまナビの電波状態は
どうすればよくなるか?
いつもみことばにふれて、
お祈りして、
教えてください、という心で歩むこと。
ナビの調子がよければ、
どんな知らないところに行くときにも
安心です。