信仰のイメージトレーニング
「あなたに代わって
私の心は言います。
『わたしの顔を慕い求めよ』と。
主よ あなたの顔を私は慕い求めます。」
(詩篇27:8)
大活躍しているスポーツ選手。
たいていみんながやっているのが
イメージトレーニングらしい。
イメージトレーニングは
自分の理想的なプレーを思い浮かべて
実際のプレーに反映させようとする
っていうトレーニング方法。
現代スポーツでは
肉体の強化と同じくらいに重要。
ってされているそうです。
うまくいくわけがない
と最初から思っていたら、
実際もうまくいかない。
信仰と通じるところがあるなーと
思います。
今日のみことばも、
言ってみれば信仰のイメージトレーニング。
自分で自分に向かって
「神さまならこう言うよ」
って言っている。
そんなこと言ってもな・・・
そううまくはいかないだろう・・・
どうせ大したことないんじゃないの・・・
そういうことにしてるだけでしょ・・・
そんなふうに最初から思っていたら、
実際もきっとそうなる。
でも神さまに目を向けて、
神さまに助けられて立ち続けている自分を
思いえがく。
自分で自分に言って聞かせてでも
そうする。
信仰の歩みにはそういう面があります。
今日も
神さまに助けてもらって
だいじょうぶな自分を思いえがいて
1日をスタートしましょう。
目のように大切
「主は荒野の地で
荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、
これを抱き、世話をし
ご自分の瞳のように守られた。」
(申命記32:10)
私たちの目。
ちょうどピンポン玉くらいの大きさで
小っちゃいけど、
体の中では、
上から数えて5本の指に入るくらい、
とっても大事な働きをしてくれる器官です。
ものすごくうまくできてて、
構造がわかればわかるほど、
「うーん、よくできてる!」
って思わずうなっちゃうほどらしい。
仕組みがとってもデリケートだから、
守る仕組みもバッチリ。
だれかに教えてもらったからというのではなく、
備わっています。
いつでもちょうどいい量の涙が流れて、
ほこりやゴミを洗い流し、
まばたきで、乾かないようにする。
やらなくちゃ、って意識しなくても、
自然にそうしています。
何かが飛んでくると、
反射的に目をつぶって
傷つかないように守ります。
神さまにとって私たちは、
この“目”のように大切な存在。
守らねばならないかどうかを
考えてから、ではなく、
いつでもどんなときでも
反射的に、って言っていいくらい、
守ってくれている。
今日も守ってくれています。
神さまにしかできない
「見よ。
わたしは世の終わりまで、
いつもあなたがたとともにいます。」
(マタイ28:20)
ずっといっしょにいたい。
ずっといっしょにいてほしい。
ずっといっしょにいてあげたい。
そう思えるだれかを
持てることはとても幸せなこと。
夫婦だったり、親子だったり、
彼氏彼女だったり、
実際に1日のほとんどを
いっしょに過ごす期間があることも
あるでしょう。
でもそれはあくまで“ほとんど”であって
ほんとの“ずっと”ではありません。
人間どうしは、
どんなにいっしょにいたいと思っても、
それは無理なこと。
たとえば旦那さんや彼氏の職場に
奥さんや彼女がついていくことはできないし、
子どもの学校に親がついていくことも
できません。
家族じゃない友だちなら
なおさら。
みんなにはまだ
遠いことに感じることかもだけど、
長年仲よくしていた相手であっても
死が二人を分けてしまう、
という現実もあります。
だから
「世の終わりまでいつも」
って、人間にはできない、
実は神さまにしかできないことなんだね。
私がどこにいても
どんな状態にあっても、
親しかった人がだれもいなくなっても、
神さまはいっしょにいてくれられる。
今日も
いっしょにいてくれます。
考えてるだけじゃなく
「どうか、私の兄エサウの手から
私を救い出してください。
兄が来て、私を、
また子どもたちとともに
その母親たちまでも打ちはしないかと、
私は恐れています。」
(創世記32:11)
兄エサウとの20年ぶりの再会を
こわがっているヤコブ。
それもそのはず。
なんと言ってもこの再会は
ヤコブをぶっ殺す!という兄さんから
逃げだしたとき以来の再会だから。
そうなる原因を作ったのは自分自身
だったわけだけど、
故郷に帰るなら会わないわけにはいかない。
避けられない再会を目の前にして、
ヤコブは必死に神さまにお祈りした。
「どうぞ助けてください!
私はこわいのです。」
このお祈りは、
お祈りがどういうものか
大切な部分を教えてくれる。
私はこわい。
今の自分のありのままを
素直にそのまま言うこと。
自分の中で考えてるだけじゃなく
それを神さまに自分のことばで言う。
そこからお祈りも神さまの助けも始まる。
その上で、
だからだめだ、というのではなく、
そこに神さまが働いてくれることを
求めて期待する。
そういうありのままの訴えを
神さまは必ず受け取ってくださる。
絶対量より気持ち?
「ヤコブはラケルのために
七年間仕えた。
ヤコブは彼女を愛していたので、
それもほんの数日のように思われた。」
(創世記29:20)
7年間がほんの数日。
ヤコブがどれだけラケルが好きだったか
よくわかります。
自分が好きなことや
好きな人のためにすることは
とても軽く、楽しく、時間を忘れて
何の苦労もなくがんばれる。
でも好きじゃないこと、
好きじゃない人のためにすることは
とても重く、苦しく、いつまでも終わらない
重労働のように感じる。
まったく同じ仕事でも
その仕事の絶対量よりも、
気持ち的なものの方が
その仕事の大変さかげんを決める
と言ってもいいかもしれません。
自分がするべきことの全部が
ほんの数秒のように思えるくらい
楽しいことばかりだったらいいけれど、
実際はそうではありませんね。
でも、楽しくないから、やりたくないから
その仕事そのものがまちがってる
よくない仕事だ、
と思うのもちょっとちがう。
自分がやりたいかどうか。
どうしてもやらなければならないことかどうか。
この二つは、切り離して考えることが
必要です。
罪のせいで、働くことは
人にとって苦しみになってしまいました。
(創世記にちゃんと書いてあります)
残念だけど、
一生ずっと楽しい、ってことはないんだね。
でも、神さまは
やるべきことはやるために
助けと力を与えてくださる方。
今日も信頼してより頼めば必ず助けてくれます。