信仰のアハ体験

「まことに主はこの場所におられる。
それなのに、
私はそれを知らなかった。」
(創世記28:16



この前何も説明しないで
使っちゃったけど、
「アハ体験」っていうことばがある。
「ああ、そうか!」っていう
「わかったぞ」体験のこと。



何かがある気がするけど
はっきりわからない。何だろう・・・?
考えてるうちはもやもやうずうずするけど、
わかった時には、
雲が一気に晴れたみたいなスッキリ感。



この時のヤコブが感じたのは
まさにこの「アハ体験」
と言ってもいものだったんだと思う。
今まで気がつかなかったけど、
神さまはちゃんといっしょにいてくれたんだ!



それがそこにあるという事実と、
そのことをどのくらい自分が感じてるか、
気がついているかは
一致しないことがけっこう多いもの。



人は思いこむことが多いから、
完ぺきに一致するってことはないだろうけど、
でもせっかくあるのに気がつかないのは
とてももったいない。



自分が持ってるいいところ。
まわりにいてくれる
自分のことを思ってくれている人たち。
そして、いつでもいっしょにいてくれる
神さま。



そうだったのか!
アハ体験は
自分の生活の景色そのものを変える。



自分はこうだと決める前にお祈りしてみよう。
何もない、だれもいない、
ってことは決してないのだから。
だれより神さまは今日も必ず
私といっしょにいてくれているのだから。

エジプトはやめておこう

「主はイサクに現れて言われた。
『エジプトへは下ってはならない。
わたしがあなたに告げる地に
住みなさい。』…
わたしはあなたとともにいて、
あなたを祝福する。」
(創世記26:2,3
 
 
 
エジプトと言えば
聖書が書かれたころの文明の中心。
とても繁栄していて豊かな場所。
 
 
 
だから飢饉があったらエジプトへ。
最先端のものがほしいならエジプトへ。
エジプトに頼めば何とかなる…。
人々の心にはエジプトへのあこがれ
のようなものがあった。
 
 
 
でもそこは、
まことの神さまのいない世界。
神さまを信じる信仰のない罪の世界。
 
 
 
だからどんなに豊かに見えても、
そこに行ってはいけない。
そこに頼ってはいけない。
神さまはくり返しそう言った。
 
 
 
神さまを信じてずるをせずに働いたり、
礼拝のために日曜日に仕事を休んだり。
それは数字だけを見たら損に見える。
ということがある。
 
 
 
でも、だからと言って、
神さまを認めない、神さまを信じない法則に
戻ったり頼ったりしてはいけないよ。
わたしを信じて
今いる信仰の場所にとどまっていたら
わたしが祝福してあげる。
神さまはそう言っている。
 
 
 
その祝福が見えてくるには、
少し時間がかかることがある。
でも見えてきたときには
最初は神さまなんか、と言っている人たちも
認めざるをえない祝福になる。
 
 
 
地道な毎日が必ず実を結ぶ。
神さまを信じて歩む生き方は
決して私たちを裏切らない。

いいがまん

「『見てくれ。私は死にそうだ。
長子の権利など、
私にとって何になろう』と言った。
…こうしてエサウは
長子の権利を侮った。」
(創世記25:32,34
 
 
 
やがての時に
豊かな祝福と財産をもらうことができる
長子の権利。
そして目の前にあるパンとお椀1杯の煮物。
 
 
 
エサウは、腹ペコの自分にとって
やがての権利など何の意味も価値もない。
それより、
今お腹いっぱいになることが大事。
と考えた。
 
 
 
それを食べなかったら
他に何も食べる物がなくて
飢え死にしちゃうというならまだしも、
食事を準備する少しの間のがまんが
できなかったんだ。
 
 
 
エサウはやがて
弟ヤコブが自分の権利を奪い取った
って言ってるけど、
渡すと決めて渡したのは自分。
 
 
 
後になってから
しまったと思ったみたいだけど、
後悔すでに遅し。だった。
 
 
 
やがて天国に行けることなんかより
今お金を手にすること、
今楽しむことの方が大事。
 
 
 
この地上で生活していると、
目に見えるものの方を手にしたい
っていう誘惑が
私たちにも押し寄せてくるかもしれない。
 
 
 
そんなとき、
私たちにもやっぱり少しのがまんが必要。
 
 
 
がまんは、どんながまんでもよくない。
っていうような考え方が広まっているけど、
がまんそのものが悪い、っていうのは
まちがい。
私たちをだまそうとするサタンのうそ
ってこともあるから気をつけて。
 
 
 
必要ながまん、
私たちのためになるいいがまんも
ちゃんとあるのだ。

山の上に必ずあるもの

「アブラハムは、その場所の名を
アドナイ・イルエと呼んだ。
今日も『主の山の上には備えがある』
と言われている。」
(創世記22:14
 
 
 
主の山の上。
アブラハムにとってそこは、
行ったらいったいどうなっちゃうんだろう。
そこに行って
自分は耐えることができるんだろうか。
そういう場所でした。
 
 
 
もし行かないですむなら、
どんなにいいか。
こんなことは悪い夢か冗談であってほしい。
きっとそう思ったんじゃないかなー
と思います。
 
 
 
神さまを信じていても
そう思って不思議じゃない場所。
それが山の上。
 
 
 
でもアブラハムは出かけて行きました。
そして山の上まで行ったとき
そこで初めて、
神さまが雄羊を備えてくれていたことを
知ったのです。
 
 
 
このくらいのことまでは、
今自分が持っているものや力で
何とかなりそうだ。
 
 
 
私たちはなるべくそういう見当をつけて、
行く前から安心しておきたい。
と考えます。
自分の頭の中で計算して、
だいじょうぶという予測が立ってから、
と願います。
 
 
 
でも、神さまが行きなさいと
いうところなら、
間に合う予測がまったく立たない、
とてもじゃないけど無理じゃないか。
と思う場所であっても、
必ず必要を備えてくれるのが私たちの神さま。
 
 
 
そこに行ってみるまではわからない。
でも行った人は
必ず見つけることができる備えです。
 
 
 
私には無理。
でも神さまは必ず間に合う助けと力をくれる。
「主の山の上には備えがある」のです。

つかまれたとしても

「彼はためらっていた。
するとその人たちは、彼と彼の妻の手と、
二人の娘の手をつかんだ。
これは、彼に対する
主のあわれみによることである。」
(創世記19:16
 
 
 
自分の意志っていうわけじゃなかった。
教会に来たのは半分無理やりというか…
 
 
 
クリスチャンホームに生まれたり、
超熱心に誘ってくれる人がいたりして
クリスチャンになると、
こんなふうに感じることがあるかも。
 
 
 
神さまを信じたことも
自分の意志だったのかな…
レールが敷かれたから
乗るしかなかったよね…
あの時は半分誘導だったような気も…
 
 
 
それはまるでこの時のロトみたいに
自分にはその気があんまりなかったけど、
手をつかまれちゃったから
仕方なかった、って感じ?
 
 
 
確かに手をつかんだ
というところだけを見たら、
半強制、っていう感触がありますね。
 
 
 
だけど、もしこの時
手をつかまれてなかったらどうなってたか。
そこが大事なところ。
ロトはソドムの町といっしょに
滅んでしまっていたのです。
 
 
 
私たちももし神さまを信じなかったら、
自分の罪の責任を取って
滅びなければなりません。
 
 
 
自分で決めたんじゃないし・・・
そんなことを言ってられるのは、
信じないことの重大さが
わかっていないから。
 
 
 
手をつかまれたとしても、
つかんでくれる人がいたことは、
実はとてもありがたいことなのです。