「神さまがくれたら」
神さまがくれたら
「わたしの肉を食べ、
わたしの血を飲む者は、
永遠のいのちを持っています。」
(ヨハネ6:54)
私たち人間の力では
どうすることもできないもの。
それがいのちです。
私たちが今持っている体のいのちは、
私たちが自分で生み出したものじゃ
ありませんね。
最近は「子どもを作る」
なんていう言い方が普通に使われてるけど、
子どもは作ろうと思って
作れるものじゃない。
いのちは全部
神さまの手の中にあるもの。
神さまがさずけてくれるところにだけ
あるものです。
たましいのいのちも
やっぱり神さまにもらうもの。
神さまにもらうしかないものです。
私たちがどんなにがんばったとしても
それで永遠に生きられるようには
決してならない。
そのいのちをもらう方法は、
イエスさまの肉を食べ、血を飲む、
つまり、イエスさまの十字架を信じること。
神さまが決めたこの方法を
わかりましたと実行する人だけが
もらえるいのち。
でも実行さえすればだれももらえるいのち。
それが永遠のたましいのいのちです。
私がどうするか決めることができます。
そして私が決めて神さまにもらったいのちは
だれも奪うことはできません。
だれがなんと言っても、
悪魔がそんなんでどうなの、と言っても、
そんなの関係ない。
神さまがくれたらだいじょうぶです。
ほんとの楽チン
「そうすれば、
隠れたところで見ておられる
あなたの父が、
あなたに報いてくださいます。」
(マタイ6:4)
人に良く思ってもらうために
心にも思ってないことを言ったりやったり。
人からいい評価をしてもらうために、
それらしく見えるように演じたり。
そういうのはだめだよ。
もしそれがどんなにいいことでも、
人にほめてもらうことが目的になってたら、
台無し。
イエスさまはそう言いました。
だから、人に気づかれないように
がんばらなくちゃいけないってこと?
逆にやりたいと思えなかったら
やっちゃいけないってこと?
イエスさまのことばが、
そんなふうななんだか不自然ながんばりや、
自分をおさえつけるがまん、
のように聞こえちゃう人がいるかもしれません。
でも、そういうことじゃない。
そこをがんばったり
がまんしたりしなくてもいい自分。
そういう自分にしてくれるんだよ。
っていうことなんだね。
神さまを知らない人は、
自分の価値を
人にはかってもらうしかないから、
人の評価をもらうためにがんばるしかない。
それはけっこうつらいことだと思う。
でも神さまを知ると
そこに頼らなくてもよくなる。
報いてくれる神さまがいることは、
不自然な演技からも、
どうせだめさ、という開き直りからも
私たちを守ってくれる。
イエスさまが言ってることは、
ほんとの楽チンへの道なのだ。
何千年スパン
「エジプトは…そこで
取るに足りない王国となる。
どの王国にも劣り、
二度と諸国の上に
自分を高くすることはない。」
(エゼキエル29:14,15)
人類の四大文明の一つエジプト。
旧約聖書の前半の時代、
エジプトはものすごい力を誇る
世界の強国の一つでした。
当時の世界の中心地であり、
世界の目はエジプトに向いていました。
今でもそのなごりは
ピラミッドなどに見ることができます。
紀元前何千年も前に
人力であのようなものを作った力と知恵。
そして王の墓におさめられた財宝が示す
ものすごい財力。
現代でもそれを見つけようと
発掘にトライする人たちがいて、
新しい発見があると
世界のニュースになるくらいです。
でも今は…。
エジプトは存在はし続けていますが、
世界の強国はどこ?
と聞かれてエジプトを思いうかべる人は
まずいないでしょう。
アフリカの中でも特別とは言えない
一つの国にすぎません。
そのことがもうすでに
紀元前に書かれたエゼキエル書の中で
はっきり言われている。
とてもすごいことだと思います。
私たちは明日のことでさえ
どうなるのかぜんぜん知りません。
でも神さまは
何千年というスパンで
世界がどうなるかわかっていて、
それを預言し、
しかも「わたしがそうする」と言っている。
それほどに大きい力を持っている方が
私たちの神さまなのです。
その方が今日も私たちといっしょに
いてくださっているのです。
それって、パン?
「人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る
一つ一つのことばで生きる。」
(マタイ4:4)
あー、知ってる。
私たちにとっては体やこの世の生活だけが
大事なんじゃなくて、
心も大事、ってことだよね。
・・・ある意味正しい答えと
言っていいでしょう。
じゃあ、体だけじゃなくて心。
その“心”って、いったい何?
心を大事にしたらどうなるの?
不安や心配がなくなる。
つらいとか悲しい、ってことがなくなる。
こんなのいやだ、もうムリ!
って思うようなこともなくなる・・・
そういう負の気持ちを持つようなことが
起こらなくなる。
・・・そんなふうに考えてる人も
多いのでは。
でもそれって結局この世の“楽”が
信じている目的、
っていうことにならないかな?
心のことだよ、と言いながら、
求めているのは
よくないことが起こらないこと、
つまりパンに
いつの間にかすりかわっちゃう。
パンは確かに
目で確かめられるから魅力的だし、
即効性もある。
そして何より生活するのに必要だから、
いっさい願い求めちゃだめ、
って言われてるわけじゃない。
でも、地獄に行かなくてすむ、
なんてことより大事。
そういう思いにのみ込まれそうなときは
気をつけて。
想定外のことが起きても
「実に、私たちは滅び失せなかった。
主のあわれみが尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。」
(哀歌3:22,23)
今や私たちの毎日にとって
なくてはならないマストアイテム、
スマホ。
無人島に一つだけ持って行けるとしたら、
スマホ、なんて答える人も
最近はいるみたいだけど、
充電しなくちゃならないのが玉にキズ。
無人島に持って行ったら
もっても2日?
電池切れでまっくらになったら、
なんの役にも立たなくなってしまいます。
当然のように毎日充電する。
あたり前のように好きなだけ使う。
コンセントがあって、
させば必要な電気をためられるのは、
とてもありがたいこと。
私たちにも
毎日神さまのあわれみが必要。
それがなかったら
いつ滅んでしまうかわかりません。
でもありがたいことに
神さまのあわれみも
毎日朝ごとに新しく、
なくなってしまうことなく注がれている。
だからこの新しい一年、
今の自分からしたら想定外のことが
起きるかもしれないけれど、
だいじょうぶ。
安心して与えられた1日1日を
過ごしていきましょう。