守りたくない心から守ってくれる
「シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、
律法の慣習を守るために、
両親が幼子イエスを連れて入って来た。」
(ルカ2:27)
私たちを律法の束縛から
解放するために来てくれた
救い主イエスさま。
でも、だからそれまでの律法はもういらない、
と無視したのではなく、
ちゃんと守っていました。
律法から解放するというと、
何の決まりもなく好き勝手にする
と思う人がいますが、
そうではありません。
「自由はルールがないところでは
成立しない。」と書いてある本
(聖書じゃないけど)があったけど、
確かにそのとおり。
ルールは社会全体の秩序を守るため、
個人が傷つけられないため、
なくてはならないもの。
私たちのためのものです。
律法も、人が罪から守られ、
神さまの恵みの中にとどまるために
どうしたらいいかを教えてくれる
私たちのためのもの。
だから、神さまの恵みをもらっても、
いらなくなってしまうものじゃない。
守っていくことは大切です。
それが自分自身を守ることになるから。
そして神さまの恵みは、
決まりを守りたくない、という心から
私たちを守ってくれるもの。
心に納める
「しかしマリアは、
これらのことをすべて心に納めて
思いを巡らしていた。」
(ルカ2:19)
今なぜこんなことが起こるんだろう?
今なぜこんなことを
しなきゃならないんだろう?
私たちの毎日には、
すぐには理由がわからない、
考えても納得できないことが
たくさん起こります。
理由がわからない、
納得できないからといって、
それは起こっていけないこと、
自分にとって意味のないこと、
とは限りません。
その時にはわからなくても、
やがて
「そういうことだったのか」
とわかったり、
そのことが意味を持ってくるときが来る。
マリアにとって、
自分が救い主を生んだこと、
しかも旅先でという、
普通ではありえない状況だったこと、
なぜか羊飼いが自分たちを
捜し当ててきたこと
…??のことばかりだったでしょう。
そのことも全部
マリアは心に納めておきました。
心に納めておく。
経験した一つ一つの出来事が自分の中で定着し、
実を結んでいくために、
とても大切な営みです。
「さあ、ベツレヘムまで行って、
主が私たちに知らせてくださった
この出来事を見届けて来よう。」
(ルカ2:15)
新しいお店がオープンするよ!
っていう情報を聞いたら
開店日に行ってみる派?
それとも取りあえずは行かない派?
救い主イエスさまのお誕生を
最初に知らせてもらった羊飼いたちは、
急いで行って、
自分の目で聞いた情報を確かめました。
今私たちが生きている社会には、
たくさんの情報があって、
それはもうあふれている
と言ってくらい。
あんまりたくさんだから、
全部を受け取ってたら頭がパンクする。
だから適当に受け流す。
自分を守るためには
必要なことですね。
でも、いつものその習慣で
神さまが知らせ、教えてくれることも
適当に受け流してしまわないように。
出所が確かかどうかわからない情報。
自分にとって必ず必要かどうか
わからない情報。
だから、受け流すのもあり。
でも神さまが知らせてくれることは、
全部どんな情報より確かで、
私に必ず必要なことです。
救い主が生まれたよ。
信じればだれでも救われるよ。
と何度聞いても、「ふーん」と聞くだけ、
「そうなのか、すごいな」
と感心しているだけ、では、
救いは自分のものになりません。
聞いたら
「じゃあ自分はどうするか」と考える。
そして立ち上がる。
それが神さまの恵みをもらう道。
メリークリスマス☆
「今日ダビデの町で
あなたがたのために
救い主がお生まれになりました。」
(ルカ2:11)
メリークリスマス‼
私たちと同じ人となって
生まれてくれた
神のみ子イエスさま。
この方は、
すばらしい人間で、
どんな犠牲を払うことにもいやな顔をせず、
たくさんの人、
特に困っている人、弱い人を助け、
みんながおどろくような
すごい力を持っていたから
救い主に「なった」のではありません。
亡くなった後に、
あの人はすばらしい人だったから
救い主にしよう、とみんなが言って、
人が救い主に「した」のでもありません。
生まれたその時から
イエスさまはもう救い主でした。
救い主「が」生まれた。
それがクリスマス。
これは神さまが
私たちのことをほんとうに大事に思って、
贈ってくれた愛のプレゼント。
神さましか贈ることができない
最高のプレゼント。
神さま、ほんとうにありがとう‼
捨てて終わりじゃない
「今日ダビデの町で、
あなたがたのために
救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。」
(ルカ2:11)
ダビデの町で生まれた赤ちゃんは
私たちの救い主。
輝かしい天国の栄光を捨て、
のんびりした静かな生活を捨て、
そして最後にはいのちも捨てて
私たちの罪の救いを
成しとげてくれました。
生まれたときから死ぬときまで、
イエスさまの一生は
人の冷たさにずっとつきまとわれた一生。
この世界の豊かさは
何も持っていなかったイエスさま。
でも実はこのイエスさまこそ主キリスト。
油注がれた者として、
世界を統べ治めるメシヤ。
すべてをおさめ、支配する力と権威を
持っているお方です。
イエスさまを信じて
クリスチャンになることは、
捨てなければならないものが多いような
気がする人もいるかもしれません。
確かに離れたり
捨てたりしなければならないものが
あります。
でも、すべてを捨てたイエスさまが
実はすべてを持っているように、
イエスさまの側に立った私たちも
やがてイエスさまとともに
世界をおさめる者になる。
救い主は主キリスト。
それがみことばの約束です。