顔を隠さない
「主は、貧しい人の苦しみを
蔑まず、いとわず、
御顔を彼から隠すことなく、
助けを叫び求めたとき、
聞いてくださった。」
(詩篇22:24)
みんなもよく知っている
「よいサマリヤ人」のたとえ。
強盗に襲われ半殺しにされた人を
見て見ぬふりをして
反対側を通りすぎて行ってしまった
祭司とレビ人。
近づいて声をかけお世話してくれたのは、
サマリヤ人だけ。
だから私たちも
サマリヤ人のようになりましょう。
というのがいつものしめくくり
だと思います。
そのとおりですね。じゃあ、自分も、
サマリヤ人のようになるべきだからなろう、
と思って、なれると思いますか?
祭司とレビ人は、
何の心の痛みも感じないで
通り過ぎたんでしょうか?
たぶんそうではなかったと思います。
どうすべきかはわかっていても
できない。
それが人の本当の姿。
自分だって同じかもしれない。
目をそむけた人を
ただ責めることはできません。
でも神さまは「顔を隠さない」。
人間のように気がつかないふりをしたり、
最初はよくても
だんだん遠ざかっていったり、
もうこれ以上いっしょにかかえられない、
と投げ出したり、
そういうことが決してない。
いつでも顔を隠さず、
近づいてくれる。よりそってくれる。
サマリヤ人はイエスさまそのもの。
その愛をいただいて、
私たちは今日も生きているのです。
手もとになくても
「エリヤを通して言われた
主のことばのとおり、
かめの粉は尽きず、
壺の油はなくならなかった。」
(Ⅰ列王17:16)
最近は、
「物を持たない主義」の
若い人が増えているとか。
住んでいる部屋には、
着るものが数枚以外は
ほんとに何もない。
お鍋はもちろん、冷蔵庫もない。
そういう生活ができるのは、
「コンビニがあるから」。
なんだそうです。
コンビニに行けばなんでもある。
だから、家に買って置いておく必要がない。
というわけ。
確かに行けば必ずそこにあると
わかっているなら、
わざわざ手もとにためておかなくてもいい。
賞味期限切れの心配もない。
神さまの恵みを
コンビニと比べるのはどうかな、
と思うけど、
この考え方、なかなかぴったり。
神さまのところに行きさえすれば、
必要な恵みや力は必ず手に入る。
だから、
自分の手元にためておかなくてもいい。
何も持ってないけど…
ってついつい心配しがちな私たちだけど、
その心配はいりません。
神さまはその日その日に必要なものは
必ず与えてくれる。
だから、今日も行けばいい。
わたしはわたし
「子は父の咎について
負い目がなく、
父も子の咎について負い目がない。
正しい人の義はその人の上にあり、
悪しき者の悪はその者の上にある。」
(エゼキエル18:20)
私たちが住んでいる日本の社会では、
「ご先祖さまのたたりが」
というようなことをよく言います。
悪いことが起きているのは、
ご先祖さまのたたりがあるから。
ご先祖さまが苦しんでいるから。
だから、修行したり供養したりしなさい、
というわけです。
この前の占いじゃないけど、
そういうことをものすごく気にして、
信じ込み、こわがったり、
たくさんのお金を払ったりする人も。
そうやってご先祖のせいにするのは、
もしかしたら
今起きている悪いことは
自分のせいじゃない、仕方ないんだ、
と思うためかもしれませんね。
でもそれでは、
自分では自分の人生をどうにもできない
ということになってしまいます。
聖書の神さまは、
一人ひとりをその人その人として
見てくれる方。
先祖のだれかのせいで
私が罰を受けることなどないし、
私のせいで子孫が罰を受けることもない。
それぞれの生き方をちゃんと見て、
それにしたがって
ふさわしいようにしてくれます。
自分がこんなふうにしてしまうのは
あの親だから。仕方ない。
などというふうに考えがちだけど、
そんなこともありません。
もし私たちが、真実に向き合い、
神さまにより頼むなら、
どんなとらわれやしばりからも
解放される力を神さまは与えてくれるのです。
うわさじゃなく
「主の日がすでに来たかのように
言われるのを聞いても、
すぐに落ち着きを失ったり、
心を騒がせたりしないでください。」
(Ⅱテサロニケ2:2)
占いに「今日はよくない」って出た。
凶のおみくじを引いてしまった。
このトンネルを通ると
長い髪の女の人の影が追いかけてくる。
夜中に橋を渡ると、不気味な声が聞こえる。
神さまとか霊とか、ばかばかしい
と言っているわりに、
こういうことをめちゃくちゃ気にして
そわそわしたり怖がったりする人、
けっこう、というか、かなりいます。
そのこわがり方や、さわぎ方が
だんだん大げさになっているような…。
なぜそこまで?
と不思議になるくらいです。
それがほんとうの事実かどうかより、
そういううわさがある
っていうだけで、
落ちつかなくなっちゃって、心が騒ぐ。
~~だってよ、的なもので、
すぐに落ち着きをなくしたり、
どうしよう、って不安になったり
しないようにね。
と言っているのが今日のみことば。
霊の世界は確かにある。
その中には悪さをしようとするものもある。
でも、私たちの神さまは
どんなものよりも強い力を持っている
って、みことばに書いてある。
そして、イエスさまの再臨も、
どこかの国のだれかが
実は再臨のキリストらしい、
なんていううわさはぜったいに✖。
イエスさまが来るときには、
だれの目にもはっきりわかるように来る、
と書いてある。
みことばをしっかり読んで、
うわさで落ち着かなくなったり
心が騒いだりしないように、
守ってもらいましょう。
無口にさせない
「この命令が目指す目標は、
きよい心と健全な良心と
偽りのない信仰から生まれる愛です。」
(Ⅰテモテ1:5)
良心(心の声と言ってもいいでしょう)は
私たちが自分のことばや行動を決めるとき
とても大切な役割をします。
主に、ブレーキ役をする、
と言ってもいいかもしれません。
自分の欲望のままに生きて
人や自分を傷つけるのを防ぎ、
守ってくれる。
それが良心です。
だけどやっかいなのは、
この良心、私たちが飼いならすことが
できちゃう、っていうこと。
無視し続けていれば
良心はどんどん無口になっていく。
最初は心が痛んだことが、
だんだんやっても平気になる。
何とも思わなくなる。
そういう経験、したことはないでしょうか。
よくないことを
よくないと思えなくなる。
そうなるとその人の生活もその人自身も
すがすがしさを失ってにごってきます。
じゃあ、キープするにはどうしたら?
それは私たちが神さまを信じて
真実に歩みを進めること。
そうすれば良心が健全になる。
と今日のみことばは言っています。
健全というのは、
正常に機能してしっかりしている。
かたよらずに調和がとれている。
こと。
神さまを信じて歩むことは、
私たちをひとりの人間としても
バランスの取れた人にしてくれる。
信じたとたんに、
というわけにはいかないかもしれない。
でも少なくとも、
その方向に向かって行くことは確かです。