なんのため?

「あなたがたの霊、たましい、
からだのすべてが、
私たちの主イエス・キリストの
来臨のときに、
責められるところのないものとして
保たれていますように。」
(Ⅰテサロニケ5:23


私たちがクリスチャンとして
毎日聖書を読んでお祈りしたり、
毎週教会に行って礼拝するのは
なんのため?


自分の信仰を守るため?
クリスチャンらしく生活するため?


それはもちろん大切なこと。
じゃあなんのために
クリスチャンらしく生活して信仰を守るの?


これがはっきりわかっていないと、
どうしてこんなことしてるんだろう、
がんばっても意味あるのかな、
って思ったりするかもしれません。


その答えを教えてくれるのが
今日のみことば。
「主の来臨のときに
責められるところがないものとして保たれる」。
これが私たちのゴール、目的です。


どんなにクリスチャンとして
立派に生活しても、
死んだらすべて終わりであとは無、なら、
ある意味むなしいこと。


でも、イエスさまがもう一度来る
「来臨のとき」がある。
それは、イエスさまが一人ひとりに、
そのしたことに応じて
報いとさばきを与えるとき。


だから私たちががんばることには
はっきりした意味があるのです。
今日も神さまを心に留めながら
真実に歩みましょう。

完全のもと

「平和の神ご自身が、
あなたがたを完全に聖なるものと
してくださいますように。」
(Ⅰテサロニケ5:23


聖書の神さまは平和の神さま。
だから、神さまがほんとうに
治めているところには、
必ず平和があります。


平和な方がいい。平和がほしい。
みんながそう思ってる。それなのに
いっこうにそうならないのはどうして?
それは、人が神さまをしりぞけ、
神さまをしめ出したから。


神さまをしめ出した人の心は、
神さまの代わりに
自分が王さまになっている。


自分のしたいようにしたい。
相手は自分がしてほしいようにしてほしい。
ぶつかったときは相手が引っ込めばいい。
とみんなが思っている。
だからいつまでも平和はやってきません。


こんなのいやなのに、
と思っていても、
自分の力ではやめることもできない。
そして苦しみ続けることになってしまいます。


それを何とかしてくれるのは神さまだけ。
神さまに全部をおさめてください
と祈るとき、その人の心の中に
ほんとうの平和がやってきます。
それが人との平和のもとになります。


神さまが全部をおさめている
ほんとうの平和な心を持っている人。
それがここに書いてある
「完全に聖なるもの」。


神さまにおさめてもらえば、
神さまがそうしてくれるんだよ。
そう言っているのです。

臨機応変力

「私は…ありとあらゆる境遇に
対処する秘訣を心得ています。
私を強くしてくださる方によって、
私はどんなことでもできるのです。」
(ピリピ4:12,13
 
 
 
今夜のおかずは何にしようかなー?
毎日となると、なかなか決まらくて
困ってしまう日もあります。
 
 
 
おかずの決め方には二通り。
何を食べたいかメニューを決めてから、
必要な材料を買いに行く。
または、家にある材料を見て、
それで作れるものにする。
 
 
 
どっちがいいというわけではないけど、
そこにあるものを見て作る方が
お金はかからない。
 
 
 
〇〇がないとできない、となると、
そのたびに買いに行くのはめんどうだし、
買おうとしたら高かった、
なんてことになるかもしれません。
 
 
 
あった方がいいなと思うものが
一つなかったとしても、
あるもので何とかする。
臨機応変力、あるといいです。
 
 
 
生活そのものや、生き方でも同じ。
これとこれがこうじゃないと、
この人がこうしてくれないと、
自分はうまくいかない。
となると、とっても不自由。
 
 
 
何か不足があったとしても
あるもので何とかできる。
置かれた環境に当てはまっていける。
この力があると生きていく上で
とってもいいです。
 
 
 
神さまは、その力を
与えてくれるお方。
 
 
 
あれがない、これがない、という前に、
今いる場所で歩める力を与えてください
と神さまにお祈りする。
「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣」
です。

″きっと"はおいといて

「私は、彼がきっと出て来て立ち、
彼の神、主の名を呼んで、
治してくれると思っていた。」
(Ⅱ列王5:11


神さまがお祈りを聞いてくれる。
それって実際は、
どういうことだと
思っているでしょうか?


これがこうなって、あれがああなって、
あの人がこうしてくれて
私たちは頭の中で
自分なりのシナリオを思い描きます。


そのシナリオがその通りになること。
それが、お祈りが聞かれること、
と思っていることが
多いんじゃないでしょうか。


ナアマンも、
きっとこうしてくれるはず。
と想像していたことがありました。
それなのに、エリヤの家に来てみたら
そのとおりじゃなかった。
だから怒ってしまったのです。


神さまはちゃんと
治そうとしてくれていたのに、
もう少しでそのまま帰るところでした。


自分が思ったとおりじゃない、
そんなことで
神さまが用意してくれてるものを
もらいそこなったら、
それこそもったいない。


思いえがいてもいいけれど、
神さまにお願いするときには
それはいったん置いておく。


神さまは
どんなふうにしてくれるんだろう?
って楽しみにするくらいがいいね。


神さまは、必ず
いちばんいいものを
準備してくれているから。
それだけじゃなく、
プロセスと方法もベストだから。

理由がわからなくても

そうすれば、
すべての理解を超えた神の平安が、
あなたがたの心と思いを
キリスト・イエスにあって
守ってくれます。」
(ピリピ4:7


心がザワザワしないでおだやかに。
だれでもあったらいいなと思っているのが
平安だと思います。


だから、自分の心が
ザワザワするようなことが
起こらないでほしい。
自分をざわつかせるようなことを
しないでほしい。
そう願います。


でも現実の毎日はそうはいきません。
自分の願うとおりでないことが、
ふつうに、当たり前に起こります。


じゃあ、願ってはいても、
実際は手に入らないものなの?
何か方法はないの?


人が普通に考える平安の条件は、
出来事とか人とか、自分の外側にある。
でもそこに条件を求めている限り、
それがかなえられることはほぼないでしょう。


それに人の心は、
何も問題がなかったからと言って、
必ず平安になるとは限りません。


心をおさめてくれるのは神さまだけ。
そう聖書は言っています。
それは、何かを納得したから
得られる平安ではなく、
すべての理解を超えた、神さまがくれる平安。
私たちの心を思いを守ってくれる平安。



理由がわからなくても平安を持てる
っていうことがある。
そのためには、とにかくお祈りすることだよ。
そう言っているのです。