無国籍にならないように

「私たちの国籍は
天にあります。」
(ピリピ3:20
 
 
 
どこの国の国籍も持っていない人。
理由はいろいろだけど、
世界中で見ると、
1000万人規模でいるそうです。
 
 
 
政治や経済が安定していない途上国の話、
ではありません。
あまり知られていないけど、
今の日本にもけっこういるんだって。
 
 
 
国籍は私たちのいろんな
権利や保護を保証してくれるもの。
学校に行けるのも、
家を買ったり借りたりできるのも、
働くことができるのも、
国籍があるからです。
 
 
 
それがないということは、
どんなに困ることでしょう。
 
 
 
聖書には、天国にも国籍がある、
と書いてあります。
 
 
 
もしなかったらどうなるか?
自分の罪の責任を
自分で取らなければならなくなり、
体が死んだとき、天国に行くことが
できなくなります。
それはほんとに困ること。
 
 
 
無国籍の人たちが国籍を取ることは、
ものすごく大変。
でも、天国の国籍は、
真剣に欲しいと思う人はだれでももらえる。
 
 
 
自分の罪を悔い改めて、
イエスさまの十字架を信じること。
条件はこれだけ。
 
 
 
今、ちゃんと持っていますか?
なくしたら大変です。
なくさないようにお祈りして歩みましょう。
 

捨てた先に

「キリストは、
神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を
捨てられないとは考えず。」
(ピリピ2:6


あなたは物をたくさん持つ派?
それともすっきり派?


最近は、「断捨離」などといって、
捨てることのすすめが
はやっているけれど、
なかなかそんなふうには思いきれない、
という人も多いでしょう。


捨てると言えば、
物だけのことではありません。
自分の考え方や生き方も
私たちがなかなか手放せないもの。
そしてこの方が、物よりずっと
捨てるのがむずかしいことが多いです。


なぜ捨てられないか、
それは、プライドに関わるから。
自分の存在そのものが
おびやかされる気がするから。
これを捨てたら終わりだ、と思うから。


でも実は
それをにぎりしめ続けていることが
いろんな問題の原因かもしれません。



神さまは私たちに、
自分はまちがっていない、自分は悪くない、
という生き方を捨てて、
わたしに従いなさい。と言っています。


そのために、まずイエスさまが
「神のあり方」を捨てた、
というのです。


私たちが何を捨てたとしても、
イエスさまが
神のあり方を捨てた以上のものが
あるでしょうか。



捨てることは失うこと、
と思うかもしれませんが、
でもそうではないのです。
捨てた先にだけ、ほんとうの豊かさが
待っているのです。

はっきり見えるように

「また、あなたがたの心の目が
はっきり見えるようになって。」
(エペソ1:18


目の不自由な方が
電車のホームから転落して亡くなる。
そんなとても気の毒な事故のニュースが
時々あります。


目が不自由でも、
いろんなスキルを身につけて、
あまり不自由を感じさせずに
暮らしている人もたくさんいます。
ほんとにすごいことだなあと思います。


それでもやっぱり見えないことは
見えるのに比べると
危険がたくさん増えることなんですね。


私たちが目から得ている情報は
8
割、というデータもあるくらい。

それがないっていうことは、
情報がものすごく制限されること。


不自由、危険、不安
見えないということは大変です。


パウロ先生はエペソの教会のために、
心の目がはっきり見えるように、
とお祈りしました。


心の目。それは、
神さまのこと、永遠のこと、
私たちのたましいのことを見る目のこと。
それがよく見えないと、
信仰について不自由や不安を感じるし、
危険も増えてしまいます。


心の目がよく見えれば、
神さまが与えてくれる希望。
救われていることの意味。
神さまが助けてくれる力。
それがどんなに大きいかよくわかる。


信じているけど、
ほんとにだいじょうぶなのかな、
まだあんまりよく見えていないかも
そう思う人は、
「見えるようにしてください」
とお祈りしましょう。

二度目があるから

「キリストも、
多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、
二度目には、罪を負うためではなく、
ご自分を待ち望んでいる人々の
救いのために現れてくださいます。」
(ヘブル9:28
 
 
 
イエスさまの一度目、二度目。
なんのことだかわかりますか?
 
 
 
一度目は、
クリスマスに人となって
生まれてきてくれたこと。
ご自分を献げ、というのは、
十字架にかかって死んでくれたことですね。
 
 
 
二度目は、
教会ではふつう「再臨」と呼んでいること。
イエスさまがもう一度
この地上に来るときのことです。
 
 
 
それは今はまだ起こってないんだけど、
これから起こる
いつかはわからないけれど、必ず起こる
って聖書に書いてあること。
 
 
 
今私たちが生きている地上の生活では、
どうしてこんなことが起こるの?
と思うようなことがたくさんあります。
 
 
 
真面目に生きている人が
大変な目にあったり、損をしたり。
ずるいことをしている人、
好き勝手にやっている人が
楽々生きて、
お金や地位や名誉を手に入れたり。
 
 
 
でもその時には、
そういうこと全部をイエスさまが
スッキリさっぱり解決してくれます。
 
 
 
イエスさまを信じて
真面目に生きている人たちが
つらい思い、悲しい思い、苦しい思いを
もう二度としなくていいようにしてくれる。
それが、イエスさまが二度目に来るとき。
 
 
 
だから今日も今いる場所で、
今しなければならないことを
真面目にやりましょう。
神さまはちゃんと見ていてくれます。

人が出てきたらそこで

「あの人たちは
あなたがたに対して熱心ですが、
それは善意からではありません。
彼らはあなたがたを私から引き離して、
自分たちに熱心にならせようと
しているのです。」
(ガラテヤ4:17
 
 
 
今、世の中には“カルト”と言われる
宗教がたくさんあります。
極端な(特に危険な、または反社会的な)
思想を持っている教えのことです。
 
 
 
そういう集団がたくさんあって、
実際にいろんな事件も起きているので、
「宗教」と聞くだけで、
「こわい、危ない」というイメージが広まって、
教会の働きも
とてもやりにくくなってしまっています。
 
 
 
クリスチャンであっても、
学校や会社で勧誘活動が行われていますから、
取り込まれてしまう危険がないとは言えません。
どうやって見わければいいんでしょうか?
 
 
 
そのヒントが今日のみことばにあります。
ポイントは
「自分たちに熱心にならせようとして」
というところ。
 
 
 
カルトにはほぼ必ず
教祖と言われる“人間”がいます。
その教祖の言うことを
熱狂的に崇拝し、礼賛する。
 
 
 
教祖の言うことはぜったいで、
お金のことも、性的な関係のことも、
たとえ殺人でも、命令とあらば実行する。
それが祝福であると教えます。
 
 
 
でも、たとえどんなに優秀な人であっても、
人は人。
人が出てきた時点で、
疑ってほぼまちがいなし。
 
 
 
目に見える人の方がわかりやすいから、
そちらに頼りたくなってしまう。
それが私たちの弱さだけれど、
だれか、じゃなくて、神さまなんだ。
それを今日もしっかり心に刻みましょう。