ぜったいに冷めない
「永遠の愛をもって、
わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに
真実の愛を尽くし続けた。」
(エレミヤ31:3)
私の母方の祖母は、
もう亡くなりましたが、
プッチンプリンが大好き♡でした。
長い間一人暮らしだったけど、
すぐ近くにあった小さなお店で
毎日のようにプッチンプリンを買い、
毎日のようにプッチンプリンを食べていました。
それが何年続いたか、
ある日突然、「もういい」と言って、
それ以来まったく食べなくなりました。
「あんなに好きだったのに、
どういうことかしら」と言っていた母。
旅行に行くときのドリンクは
必ず“午後の紅茶”。
まちがいなく10年以上は続けていたけど、
やっぱりある日突然「もういい」と言って、
それ以来“午後の紅茶”を持ってきたことはなし。
人は、どんなに好きだと言ってても、
その“好き”が突然終わったり、
終わるまでいかなくても冷めてくる
ということがあります。
でも、神さまの愛は「永遠」。
始まりもなく終わりもなく、
神さまが私たちを愛しているという事実は
決して変わらない。
そして神さまの愛は真実の愛。
それは、うそ偽りがいっさいない、
という意味です。
神さまが愛していると言ったら、
そのことばどおり。
一時的に激しく愛してくれたけど
そのうちに飽きた、なんてことは
ぜったいにありません。
神さまはいつでもどんなときでも
同じ熱で私たちを愛してくれています。
その愛は今日も注がれているのです。
だから今日もじゅうぶん
「しかし主は、
『わたしの恵みはあなたに十分である。
わたしの力は弱さのうちに
完全に現れるからである』
と言われました。ですから私は、
キリストの力が私をおおうために、
むしろ大いに喜んで
自分の弱さを誇りましょう。」
(Ⅱコリント12:9)
弱さを誇る。
いったいどういうことでしょう?
どうせ自分は弱いんだ
と開き直ることでしょうか。
強いところ、できるところがあっても、
それを見せちゃいけない。
何もできないふりをすることでしょうか。
信仰と開き直りはちがいます。
できないふりは“ウソ”がまじるから、
これもちがうでしょう。
それでは…?
まず自分ができることとできないことを
よく見きわめることです。
人間は素直じゃないことが多いので、
できるけどやりたくないから
できないと言ったり、
できないのに
できると言いたがったりします。
そこをちゃんとありのまま認めて
受け入れること。
そして、自分でできることがあるなら
それは自分でしなければいけません。
ゆだねるとは、
放り出すことではないからです。
でも自分では
どうすることもできないこともある。
そのことについては、
神さまにおまかせする。お願いする。
神さまの恵みは、
“うまくいく”ことだけによって
現れるのではありません。
キリストの力。それは、
何でもうまくいかせてくれる力ではなく、
思いどおり、願いどおりではないところを
乗り越えさせてくれる力。
神さまの恵みはいつでも十分。
だから今日もじゅうぶんです。
何があってもへっちゃら?
「マケドニアに着いたとき、
私たちの身には全く安らぎがなく、
あらゆることで苦しんでいました。
外には戦いが、内には恐れがありました。
しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は
…私たちを慰めてくださいました。」
(Ⅱコリント7:5,6)
聖書に出てくるバリバリの人たち。
と言えば?
人によって思い浮かぶ名前は
いろいろだろうけど、
必ず名前があがる一人はパウロでしょう。
イエスさまの福音を
外国にまで広めていったパウロ。
行く先々でたくさんの人が
イエスさまを信じたけど、
反対もはんぱじゃありませんでした。
でも何があってもめげない。
それがパウロのキャラ。
パウロはほんとにすごいけど、
自分はとてもパウロにようにはなれない。
そう思っている人が多いのでは?
でもよく見てください。
パウロも外側の困難に苦しみ、
内側には
恐れがいっぱいになっていたのです。
神さまの力に満たされたら、
何があってもへっちゃら。
戦いがあってもこわがったりしない。
苦しいなんて感じない。
そんなふうに思い込んでしまいがち。
でもそうではないのです。
へとへとになったり、こわくなったり、
気弱になったり、苦しくなったりしたら
信仰が弱くてだめなのではありません。
そんな時は
神さまに今の状態をありのまま言えばいい。
神さまは全部ちゃんとわかってて
責めるのではなく、
慰めを与えてくれます。
入れ物と中身
「私たちは
この宝を土の器の中に入れています。」
(Ⅱコリント4:7)
人の値打ち。
入れ物と中身、どっちが大事でしょう?
それはもちろん、
中身がいい方が大事だよね。
…うーん、でも入れ物もよかったら
もっといいかも…。
入れ物がよければいいんじゃないことは
わかってる。でも、
中身がよければ入れ物はどうでもいいか
と言われると、うーむ
さあどうなんだろう?
言い切ってしまっていいのか?
迷う人が多いのではと思います。
それはたぶん「中身がいい」の
よさかげんのちがいが微妙だから。
これが中身が100万円となったら、
入れ物が何だろうと
まったく問題にならないでしょう。
だれの目も100万円に釘づけです。
何に入っているかなんて気にしません。
100万円の価値は
確立しているからです。
イエスさまという宝の価値は
それこそぜったい。
私たちは自分という器が
へぼいとか、もろいとか、
だめだめだとか、見ばえが悪いとか
そっちの方に気を取られがち。
でもイエスさまの価値は
入れ物がだれでも
変ることなくいつでもかんぺき。
だから、自分の器がどうかというより、
中身のイエスさまが
じゅうぶん働けるように。
そのことを気にかければよいのです。
そうお祈りすればよいのです。
イエスさまのレンズで
「確かに今日まで、
モーセの書が朗読されるときは
いつでも、彼らの心には
覆いがかかっています。
しかし、人が主に立ち返るなら、
その覆いは除かれます。」
(Ⅱコリント3:15,16)
年齢が進んだ方たちがよく受ける
白内障の手術。
最近は医療技術が進んで、
日帰りでできるそうです。
手術を受けた人たちは
声をそろえて言います。
「ホントによく見える!」
手術をする前は、
曇りガラスを通して見てるみたいな感じ
なんだそう。
目のレンズは長い間使っていると、
使いすぎたプラスチックみたいに
くもってくるらしい。
手術ではそれを透きとおったレンズに
入れ替えるから、
すべてがスッキリはっきり見える
というわけです。
モーセの書、律法だけをとおして
神さまを見ると、
ちょうど手術前の白内障状態。
薄暗く曇っていてスッキリ感がなく、
はっきり見ることができません。
しばる方、きびしい方、さばく方、
というちょっと誤った理解も生まれてしまいます。
でもイエスさまというお方をとおして
見るなら、
神さまの愛がはっきりわかり、
そこにほんとうの自由があることが
わかるのです。
曇ったレンズで無理に見ようとすると
よけいな負担がかかる上に
結局はっきり見えなくて
モヤモヤする。
だからいつでも
“イエスさま”レンズを使うことを
忘れずに。