信仰ソフト

「生まれながらの人間は、
神の御霊に属することを受け入れません。
それらはその人には愚かなことであり、
理解することができないのです。
御霊に属することは御霊によって
判断するものだからです。」
(Ⅰコリント2:14
 
 
 
パソコンのOSが進化すると、
こっちが頼んでもいないのに
いろいろ更新したり
勝手に新しいフォルダーを作ったり
することがあります。
 
 
 
しかも、
見たことがないフォルダーができてるから、
「あれ、これなんだろう?」
と思って中身のファイルを開こうとすると、
「このファイルを開くソフトがありません」
っていうメッセージが出たりする。
 
 
 
見覚えがないのに、
削除していいかどうかもわからない。
困ってしまいます。
 
 
 
ファイルを読むためには、
それを読めるソフトが必要。
そんなことわかってるから、
読めないファイルを
勝手に作らないでほしい。
 
 
 
神さまのこと、たましいのこと、
永遠のこと、・・・
そのことを理解するためにも
言ってみればソフトが必要です。
それは“信仰”というソフト。
 
 
 
この世界のいろんな知識や基準、
人が価値があると思うこと、
それで神さまのことを判断しようとすると、
出てくる結論は「ばかげている」。
 
 
 
どんなに大切で
なくてはならないものか。
もしなかったらどんなに自分が困るか。
そのことを理解することができません。
 
 
 
“この世ソフト”が価値があると認めるのは、
この世の成功に役立つか、
自分の評価が上がるか、
自分が損をしないですむか。
 
 
 
この世ソフトは、
永遠など、なんの価値もないものと
判断してしまいます。
それを読み取れるのは信仰ソフト。
 
 
 
もうインストールしてますよね?
だからいつでも使って、
永遠の価値をしっかり読み取りましょう。

主語に注目

「主はあなたがたを最後まで堅く保って、
私たちの主イエス・キリストの日に
責められるところがない者と
してくださいます。」
(コリント㈵1:8)
 
 
 
最後まで堅く保たれる?
責められるところがない者とされる?
 
 
 
それって、なんだかとにかく
ものすごくがんばらなきゃいけない、
ってこと?
という印象を持つ人が多いかもしれません。
 
 
 
「最後」という時までが
あとどれくらいあるのかわからないけれど、
けっこうな期間な気がする。
それまでずっと堅く保たれるって、
どれだけ力こめなきゃいけない?
 
 
 
おまけに責められるところがないなんて、
人間関係の中だけでも
責められないように細心の注意を払って
神経使ってるのに、
全部を見て知っている神さまに
責められないようにするなんて、
いったいどれだけ神経を使えばいいの…
 
 
 
何か聞いたり読んだりするとき、
自分にとって印象が強いところだけを
キャッチして、これは大変だ!
と思ってしまうことがあるけれど、
このみことばの場合は
“主語”に注目です。
 
 
 
主語はだれでしょう?
それは「主」。
 
 
 
私が力をこめ、
私が神経を使うのではなく、
神さまがそうしてくれる。
それがこのみことば。
 
 
 
だから、神さまにゆだねていけば
いいのです。

決して敵にしない

「するとイエスは
『やめなさい。そこまでにしなさい』
と言われた。そして、
耳にさわって彼を癒やされた。」
(ルカ22:51


このときイエスさまに
耳を癒してもらった大祭司のしもべ。
いったいどんな気持ちだったでしょう。


敵であるはずのイエスさまが
「やめなさい。」と言って
自分に切りかかった弟子を止め、
それだけでなく、癒してくれたのです。


捕まえに来た人になおしてもらう。
きっととても不思議な気持ちが
したでしょう。
自分は何をしに来たのか、
わからなくなったかもしれませんね。


馬鹿にしたり、無視したり、
ここがおかしいと非難して悪口を言ったり、
人はイエスさまに対して
さんざんそのような態度を取ってきました。
今もそのような態度を取っている人が
たくさんいます。


でもイエスさまは、
どんなことをしようとする人のことも
敵としてやっつけようとは
決してしません。


やっつけるどころか、
傷ついていたら
手を伸ばして癒してくれるのです。


だれかの話ではありません。
私たち自身も、
イエスさまがいるのに
いないかのようにふるまったり、
イエスさまの声を無視したり、
それでも神さまなのかとののしったり、
敵と思われてもしかたがないことを
たくさんしてきました。


今もしているかもしれません


でも、イエスさまは
そんな私たちのことも敵とは思わないで、
受け入れ、手をさし伸ばしてくれました。


これからも、
どこまでもいつまでも私たちを癒したい、
助けたいと思ってくれています。
 

どこまで積んでもグラグラしない

「しかし、愛する者たち。
あなたがたは
自分たちの最も聖なる信仰の上に、
自分自身を築き上げなさい。」
(ユダ:20
 
 
 
積み木あそび。
上へ、上へと積んでいって、
高く積めると、けっこうな達成感。
高くできたからって、
別にどうというわけでもないんだけれど、
なんだかうれしい。
 
 
 
高くしたいなら、大事なのは積む場所。
平らで固いところ。
いろんな振動が伝わりにくいところ。
 
 
 
やわらかい場所、傾いている場所、
だれかが歩いたらグラグラする場所、
そういうところは、低いうちはいいけれど、
高くなってきたらアウト。
 
 
 
私たちの毎日の生活も、
積み木みたいなところがあります。
だからやっぱりどこに積むかが大事。
 
 
 
それは自分の不敬虔な欲望じゃなく、
聖い信仰なんだよ、と言っているのが
今日のみことばです。
 
 
 
不敬虔な欲望、というのは、
神さまを恐れずにただ自分の肉の欲を
果たすために生きること。
 
 
 
お金や名誉、快楽を得ることが目的の生き方。
それが立っている足元は、
この世のものや人の評価。
変わりやすくていつグラっとくるかわからない。
高く積んであるほど、
倒れたときの痛手は大きくなります。
 
 
 
信仰の上に自分自身を築く。
それは、神さまがいることと、
その神さまは
神さまを求める人に報いてくれることを
信じて生きる。ということ。
 
 
 
神さまは目に見えないけれど、
決して変わらない。
まわりの何かにグラグラさせられない。
だから、どこまで積んでいっても
足元がぐらつくことは決してありません。

安心していつも通りに

「惑わされないように気をつけなさい。
…戦争や暴動のことを聞いても、
恐れてはいけません。」
(ルカ21:8,9



「この世界が明日で終わるとしたら、
あなたは今日何をしますか?」
という質問。
あなたなら何と答えますか?



最近お天気がおかしいし、
大きな地震や津波があっちこっちであるし、
戦争やら飢饉やら、
聖書で世の終わりのしるし
と言われていることがたくさん起こっています。



イエスさまのお出で—再臨—
がいよいよ近いね、という言葉を聞くことも
増えています。



それを聞くと何だかそわそわしてしまい、
いつもの日常を
「こんなことしてる場合じゃないのかな」
と思ってしまう人もいるかもしれません。



もし明日が世の終わりだったら、
何か特別なことをしなければ
いけないんでしょうか?
今日を普通に過ごしては
いけないんでしょうか?



聖書はむしろ、
逆のことを言っています。





明日が終わりでもいつも通りに過ごせる。
そういう生き方をしなさい。
明日が終わりと聞いてあわてるような
生き方をしていてはいけないよ。
そう言っているのです。



どうすれば、そんなふうに
生きられるでしょうか。
そうできるようにしてくれるのは
イエスさま。



イエスさまと
いっしょにいることが確かなら、
何もあわてたり心配したりする必要はありません。
安心して今日も
いつも通りに過ごしてよいのです。