折らない、消さない

「彼は傷んだ葦を折ることもなく、
くすぶる灯芯を消すこともなく、
真実をもってさばきを執り行う。」
(イザヤ42:3



真実でさばく。
それだけ聞くと、とても厳しくて
冷たい感じがします。



人が神さまを抜きにして
真実でさばこうとすると、
自分の方が正しいという思いが
前に立ってしまうからでしょう。



人は、自分の方が正しいと言おうとすると、
「あなたはまちがっている」
というオーラを発してしまいやすいのです。



その圧があまり強いと、
そのさばきがいくら正しくても、
人を傷つけてしまって、
結局人を遠ざけることになってしまいかねません。



でもイエスさまはそうではありません。
ここでといっているのは、
やがて来る救い主、イエスさまのこと。



イエスさまは傷ついた葦をさらに痛めつけて、
2
度と立ち上がれないようにしたり、
くすぶってようやく燃えている灯芯に
水をかけて
2
度と燃え上がれないように打ちのめしたりは
決してしない。



真実なさばきが曲げられないために、
人を押しのけ、自分だけが立つのではなく、
すべてを呑みこみ、引き受けてくれたのです。
自分がいちばん傷つき、苦しんでくれました。



でもイエスさまは、
悪に屈服して真実を曲げることも
決してない。
最後には完ぺきに公平に評価してくれます。



だれも認めないけど、
イエスさまだけがわかってくれる
っていうだけじゃなく、
すべての人にわからせてくれるのです。



だから、イエスさまのそばにいるのが
いちばん安心です。
今日もイエスさまといっしょに過ごしましょう。

翼を広げて風をキャッチ

「しかし、主を待ち望む者は
新しく力を得、鷲のように、
翼を広げて上ることができる。」
(イザヤ40:31
 
 
 
鷲。イーグル。
けっこう大きいだろうと思っていたけど、
ちょっと調べたら想像以上でびっくり。
体の大きさは約1メートル。
翼を広げると、2.5メートルにも
なるそうです。
 
 
 
鷲が飛んでいるところを見かけることは
あまりないけど、
鷲の仲間で鳶(とび)なら、
見たことある人も多いんじゃないかな。
ピーヒョロロと鳴きながら
高いところを飛んでいる鳥です。
 
 
 
鷲のように翼を広げて上る。
「自分にはそんな上る力はない」
と思っていませんか?
 
 
 
見ればわかるけれど、
飛んでいるとき、鷲や鳶は
ほとんど翼を動かしていなくて、
ただ広げているだけ。
 
 
 
2.5メートルにもなる大きな翼で、
風をつかみ、飛んでいるのです。
鷲を天高く上らせているのは
鷲の力ではなく風の力。
鷲が風に乗っている姿は悠々として風格があり、
とても優雅です。
 
 
 
私たちが鷲のように飛ぶ、というのも、
自分で必死に羽ばたいて
自分の力で上っていくということを
言っているのではありません。
 
 
 
神さまの風、御霊の力によって
上るのです。
神さまの風をとらえる私たちの翼は
信仰の翼。
 
 
 
信仰の翼を広げるなら、
神さまが私たちを天高く上らせてくれる。
必死に羽ばたかなくてよいのです。
 
 
 
もっともっと信仰の翼を広げて、
神さまの風をキャッチしましょう。

喜びのガソリン

「あなたがたはイエス・キリストを
見たことはないけれども愛しており、
今見てはいないけれども信じており、
ことばに尽くせない、
栄えに満ちた喜びに踊っています。
あなたがたが、信仰の結果である
たましいの救いを得ているからです。」
(Ⅰペテロ1:8,9
 
 
 
話を聞くとき大事なのは“文脈”。
どういう流れでだれが言ってるのか。
それ抜きで
一つのことば一つの文章だけ取り上げると、
とんでもないかん違い、
ってことになる可能性も。
(最近そういうの、多い気がするけど・・・)
 
 
 
「だれだれさんが
こんなこと言ってたんだって」
なんていううわさを聞いて、
「へえ~~あの人ってそんな人だったんだね」
とすぐ決めつけるのは✖。
 
 
 
判断するのは前後をちゃんと聞いてから。
とても大切なことです。
 
 
 
「クリスチャンはいつも喜び踊っている」
という今日のみことばも、そこだけ見て、
そんなの無理じゃないの、とか
あの人はそうしていない、とか思いがち。
 
 
 
でもその後がとても大事なのです。
どうして喜び踊っているのか、
その理由。それは、
「たましいの救いを得ているから。」
 
 
 
これがなければ、
いつでも喜び踊っている、って、
ただの無感覚人間か、能天気人間です。
 
 
 
これなしで喜ぼうとするのは
ガソリンなしで車を走らせようと
するようなもの。
 
 
 
自分の思ったように事が運ばないときも
喜び感謝できる。
仕えたりささげたりすることがうれしい。
それは全部、「この救いを自分がもらった」
っていうことがあっての話。
 
 
 
喜んだり、仕えたり、ささげたり、
がむずかしいと感じるときは、ほぼたぶん
救いをもらった。その意味が
自分の中でうすれているから。
 
 
 
だから、しなきゃ、とがんばるんじゃなく、
救いをもらったことは
自分にとってどういうことか、
もう一度思い出して確かめることです。

自由を生かそう

「自由な人として生活しなさい。
しかし、その自由を、
悪事を覆い隠すてだてとせず、
神の僕として行動しなさい。」
(Ⅰペテロ2:16・新共同訳)
 
 
 
きのうノーベル賞のことを書いたけど、
ノーベル賞は
ダイナマイトを発明したノーベルの
遺言でできた賞。
 
 
 
ダイナマイトはものすごい威力の爆弾。
ノーベルは人類の助けになると考えて
これを作ったんだけど、
実際は戦争のために使われるようになってしまい、
ノーベル自身も「死の商人」
と言われるようになってしまいました。
 
 
 
そんなつもりじゃなかったのに
戦争の道具を生み出してしまった罪滅ぼしに、
ダイナマイトで得た巨万の富を
何とか返せないか、
と考えて始まったのがノーベル賞。
 
 
 
良い意図で使えばすばらしいはずのものが、
悪い意図で人の欲望のために使われたので
とんでもないことに
なってしまったんですね。
 
 
 
私たちに与えられている自由も、
どういう意図でどう使うかがとても大事。
 
 
 
何をしても自由だからと言って、
悪いことを隠すために使ったらだめだよ。
と今日のみことばは言っています。
 
 
 
具体的に言えば、
「何したって俺の(私の)勝手でしょ」
と言わなきゃいけないようなことは
しない、っていうこと。
 
 
 
与えられている自由の意志。
権利としてふりかざせば、
人を不快にさせたり傷つけたり
してしまいます。
自分自身をだめにしてしまう可能性もあります。
 
 
 
でも、自由を使って
神さまに従う道を選び取れば、
自由が本来持っている輝きと魅力を発揮する。
 
 
 
自由を生かすか殺すか、
それは私たちの手にゆだねられています。
今日も私たちの自由の意志で、
神さまといっしょに歩みましょう。
 

天国のドレスコード

「王が客たちを見ようとして
入って来ると、
そこに婚礼の礼服を着ていない人が
一人いた。」
(マタイ22:11


今年のノーベル生理学・医学賞に
日本の本庶佑さんという人が選ばれました。
とってもよくきく抗がん剤を
発見したんだそうです。


ノーベル賞の授賞式は1210日に
スウェーデンのストックホルムで
開催されます。


この式に出る男性は
白い蝶ネクタイに燕尾服を着ていく
って決まってるんだって。


こういう決まりをドレスコード
って言うんだね。
その場にふさわしい服装の基準、
服装のマナーのことです。


自由だから何でもいい、
というわけにいかない場面もあるのです。


天国にもドレスコードがあります。
イエスさまがたとえで「婚礼の礼服」、
って言っているこのドレスコードは
「救い」という礼服。


これを着ていない人は、
天国に入ることができません。


燕尾服とかカクテルドレスとか言われると、
新しく買わなくちゃならない、
しかもどう考えても安くない・・・


けど、天国の礼服は、
私たちが自分で買う必要はありません。
なんと全員分用意してあるのです。


なんという太っ腹!
私たちはそれを着ればいいだけ。


ただし着るかどうかを決めるのは自分。
いつお呼びがかかってもいいように、
今日もちゃんと着てるかな、
日々チェック。確かめましょう。