充電忘れずに

「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカ8:48



私たちの生活に欠かせないスマホ。
電話やメールはもちろん、
いろんな情報を得ることができます。
スマホさえあれば、
何かあってもだいじょうぶ。



なんだけど、一つ重大な問題が。
それは"充電"
電池が切れたら、
どこにも連絡できなくなるし、
何を調べることもできなくなってしまいます。



災害の時とっても便利。
って言うけれど、
充電が切れたら=1日、2日のうちには
使えなくなる、っていうことでは?
って思います。



私たちのまわりには
とっても便利な電化製品が
ほんとうにたくさんあるけれど、
どれもこれも活躍してくれるのは
電源につながっているとき限定。



コードレスで使えるよ。と言っても、
充電あっての話です。



電化製品のパワーを引き出すのは充電。
私たちが神さまのパワーをもらうのに
必要なのは"信仰"



充電は一度満タンになっても
使えば減っていくから、
またくり返し充電が必要ですね。



私たちの信仰も、
一度信じてパワーをもらったからと言って、
そのままにしていたら、
やがてからっぽになる。
そして力がなくなってしまいます。



いつでも"信仰"で神さまにつながっている。
そうすればどんな時でも
しゅ~~~ん・・・
としぼみ切ってしまわないで
またまた立ち上がっていける。



パワーは自分の中にじゃなくて、
神さまにあるから。
そして神さまのパワーは
切れてしまうことがぜったいにないから。

信仰の防災

「聞いても行わない人は、
土台なしで地面に家を建てた人に
似ています。」
(ルカ6:49
 
 
 
今月の6日、
北海道で最大震度7の大地震がありました。
 
 
 
大きな土砂崩れ、
北海道全体の停電、断水・・・
たくさんあった被害の中に、
“液状化”があったのを見ましたか?
 
 
 
特にひどかったのは札幌市。
家の建物はけっこう新しくてきれい。
しかも、それほど壊れてもいない。
 
 
 
なのに、
地面そのものがグズグズになってしまって、
家ごと傾いてしまいました😢
 
 
 
もちろん土台は
それなりにしてあったのでしょう。
でも、地面そのものがドロドロになると
どうすることもできない。
ほんとうにお気の毒と言うしかありません…
 
 
 
イエスさまのこのたとえは、
マタイの福音書では「砂の上」に建てた
となっているけれど、
ルカの福音書は「土台なしで」
となっています。
 
 
 
建物そのものをどんなに立派にしても、
土台部分がグズグズでは
せっかく建て上げたものが
いつ使い物にならなくなってしまうかわかりません。
 
 
 
クリスチャン生活の土台は、
聞いたみことばを行うこと。
 
 
 
一堀一堀地面を掘り下げる作業は地道で、
はっきり言って
あまりおもしろいとは言えない作業。
 
 
 
でも、せっかくの努力を
水の泡にしたくないと思うなら、
どうしても必要です。
 
 
 
自分の信仰の家の土台を据える地面は
人に掘ってもらうことはできない。
自分で掘るしかありません。
 
 
 
地味だけど、
楽しくはないかもしれないけど、
やるしかない。
言ってみれば、信仰の防災です。

ベスト&ビューティフル

「神のなさることは、
すべて時にかなって美しい。
しかし人は、
神が行うみわざの始まりから終わりまでを
見極めることができない。」
(伝道者の書3:11


車で人を駅に迎えに行くとき。
駅前がずっと停まっててもいいならいいけど、
基本的に駐車はダメだよ、だから、
何分前に家を出たらいいか迷います。


道の混み具合はもちろんだけど、
信号のタイミングが
何分かかるかをけっこう左右する。


この前ギリギリだったから
余裕を見て少し早めに出たときに限って、
信号が青から青。
どこかが赤になって引っかかりたいと思っても、
なぜか青。
で、早く着きすぎることに。


この間早く着きすぎたから
5分遅く出てもいいかなと思ったときに限って
信号が赤から赤。
いつもは引っかからないはずのところも、
なぜか赤。
で、相手を待たせることに。


ちょうどよく着くのって
なかなかむずかしい。
タイミングがぴったりだと、
ものすごく気持ちいいんだけど。


神さまがすることは全部、
時にかなって美しい。
それは、神さまはいつでもベストタイミングなお方、
っていうこと。


神さまは、永遠も含めて
ぜ~んぶぜ~んぶ見ておられる方。
すべてを見てるから、
いつが一番いいときかをよくご存じ。


私たちはどちらかといえば、
神さま、してくれるの遅すぎ、
と感じることが多いかも。


それは私たちが、一部分、
たいていの場合は自分の目の前のことしか
見えないからなんだよ。
と聖書は教えてくれます。


神さまは私だけじゃなく、
いろんな人たち、いろんな状況も含め
全体にとって一番いいときに
やってくれる。


しかもぴったりなだけじゃなく、
美しい。
だから今日も信頼しておまかせしましょう。
 

いやな顔なしに

「あなたがたのうちに、
知恵に欠けている人がいるなら、
その人は、だれにでも惜しみなく、
とがめることなく与えてくださる神に
求めなさい。
そうすれば与えられます。」
(ヤコブ1:5
 
 
 
私たちの生活は、
自分一人ですべてを完結するのは
ほぼ無理。
 
 
 
生活でも仕事でも、
だれかに頼んでいろいろやってもらって
成り立っています。
 
 
 
もちろんやってもらうだけじゃなく、
やってあげる側になることも
ありますね。
 
 
 
小さい子どもの時は
ひたすらやってもらうだけだけれど、
成長に応じて
自分もできることはやっていく。
 
 
 
大人になっていくときに
とても大切なことだと思います。
 
 
 
自分が気持ちよく頼まれてほしいなら、
自分も気持ちよく引き受ける。
生活や仕事を気持ちよくできるために、
ぜひ心がけたいことです。
 
 
 
どうしてもあの人に頼む以外ないんだけど、
必ず何か一言イヤミを言われる。
最終的にやってはくれるんだけど、
いつもいやいやながら…。
私たちのまわりには、
そんな人がいることもあります。
 
 
 
そういうときには、
頼むのがとてもおっくうで、
胸に重たい石がつかえたみたいになってしまいます。
 
 
 
でも神さまは、
「だれにでも惜しみなく、
とがめることなく与えてくださる」
いやな顔をする、ということのない方。
 
 
 
私たちの願いに答えるときに
出し惜しみをしたり、
文句を言いながら仕方なく与えたり、
そういうことが決してないお方です。
 
 
 
それは、お願いするときに
顔色やご機嫌をうかがう必要がない、
ってこと。
 
 
 
私たちが神さまなら、と信頼して
お願いすることを喜び、
「そういう願いを持っているんだね」
と気持ちよく受けとめてくれます。
 
 
 
だから心配しないで、
どんなことでも、
信頼して求めていきましょう。
 
 
 
「そうすれば与えられます」
それが神さまの約束です。
 
 
 

もらったからシェア

「ですから、
私たちは機会があるうちに、
すべての人に、特に信仰の家族に
善を行いましょう。」
(ガラテヤ6:10
 
 
 
私たちが
神さまの救いをもらうことができるのは、
私たちがなにか善い行いをしたからじゃなく、
神さまの一方的な愛と恵みがあるから。
 
 
 
私たちはいつも、
そう教えられています。
それは、ほんとうです。
 
 
 
じゃあ、
善い行いには意味がなくて、
善い行いをする必要もないの?
 
 
 
そうではありません。
そこのところ、バランスよく
理解することが大切。
 
 
 
私たちの善い行いには意味がない。
それは、
「私たちが自分の罪を赦してもらうためには」
「私たちが心を変えてもらうためには」
っていうただし書きつきで、
このかぎかっこの中身がとっても大事。
 
 
 
神さまは決して善い行いそのものを
否定しているんじゃなく、
むしろするように、すすめています。
 
 
 
それは義務やおつとめではなく、
神さまからもらった恵みをシェアしましょう、
という意味。
 
 
 
特に“機会のあるうちに”
というところに注目。
「した方がいいかな」という思いが
心の中に与えられた時には、
ぜひそれを行動に移してみましょう。
 
 
 
「また今度」「いつか」
と言っていると、そのうちに、
チャンスがなくなってしまうかも。
 
 
 
小さなことば。小さな行動。
どんなことでもいいのです。
神さまはきっとそれを用いてくださいます。
 
 
 
少なくとも
ちゃんと目を留めて覚えていてくれます。
そして必ず
「あんなちっちゃいことしかしてないのに?」
と私たちがおどろくような報いを
与えてくれるのです。