飛び越えさせてくれる

「あなたによって 
私は防塞を突き破り
私の神によって
城壁を飛び越えます。」
(詩篇18:29
 
 
 
神さまを信じたら
なんの問題も試練もないのだったら
どんなにいいでしょう。
 
 
 
でも実際はそうではありません。
“城壁”と言わなければならないような
高くそびえる問題や試練に
直面させられることもあります。
 
 
 
そんな高い壁を目の前にするとき、
私たちは途方にくれて
立ちすくんでしまい、
次の一歩が出なくなってしまいます。
 
 
 
この詩篇を読んだダビデも、
心から愛して仕えていたサウル王から
ずっと長い間
いのちをねらわれ続けました。
 
 
 
ダビデに何か落ち度があったなら
まだ仕方ありません。
でもそれは、言ってみれば
サウル王の一方的な思い込み。
 
 
 
もうこれで終わりか、
というところを何度も通りました。
でも神さまは、
不思議にダビデを守ってくれました。
 
 
 
そのことをふり返ってダビデは
神さまが城壁を飛び越えさせてくれたのだ、
と言っているのです。
 
 
 
どうしたらいいかわからない。
悩みと苦しみの中で私たちにできることは
ただ「神さま、神さま、助けて!」と言いながら
歩むことだけ。
 
 
 
でもそうしているうちに、
気がついたときには
城壁の向こう側に出ている。
 
 
 
神さまはそのようにして
必ず私たちを助けてくれるお方です。
どんな高くそびえる城壁も
乗り越えさせてくれるお方なのです。

"好き度"マックス

「すべての人は罪を犯して、
神の栄光を受けることができず、
神の恵みにより、価なしに
義と認められるからです。」
(ローマ3:23,24


あなたがこれまで
だれかから買ってもらったものの中で
いちばん高いものはなんですか?


一般庶民の私たちだと、
高いと言ってもせいぜい数万円くらいでしょうか。


だけどこれがアイドルだったりすると、
ファンが外車も買ってくれることがある、
っていうんだから、おどろきΣ(Д)


あんまり高すぎると逆に恐いけど、
ファンの人は、それだけ払っても
惜しいとは思わないんでしょう。
それだけ好き度が高いってことなんですね。


ところがなんと、私たちクリスチャンが、
買ってもらっているものは、
外車どころじゃなく高いもの。


それは「罪がゆるされた正しい人認定」。
この認定は
私たちが天国に入るためには
ぜったいに持っていなきゃならないもの。


なのに、私たちがどんなにがんばっても
高すぎて自分では払うことができない。
だから、神さまが代わりに買ってくれました。


そのために神さまが払ってくれたのは、
イエスさまのいのち。
これ以上に高い代価はどこにもありません。



神さまはそれを払っても
惜しくない、もったいなくない
と思ってくれました。


神さまが私たちを思う好き度
どんなに高いか、わかります。
神さまはマックスレベルで
私たちを愛してくれているのです。

飛行石の光

「あなたの神、主の命令を守って
主の道に歩み、主を恐れなさい。
あなたの神、主が
あなたを良い地に導き入れようと
しておられるからである。」
(申命記8:7



「天空の城ラピュタ」
手に汗握るストーリーの最後に
解き放たれたラピュタが
ゆったりしたホルンの音に乗って
飛び去って行くシーンはとっても雄大です。


主人公パズーのところに
ある日突然天から降りてきた少女シータは、
実はラピュタ王家の子孫。
そのしるしに飛行石のペンダントを
持っています。



飛行石は不思議な光を放ち、
その光はいつでも
まっすぐにラピュタの方向をさし示します。
その光の先には、
必ずラピュタがあるのです。


映画ではその光をめぐって、
いろんな攻防がくり広げられるけど、
ここではストーリーのことは
置いておきましょう。


実は私たちにも
この飛行石が与えられています。
それはみことばです。


みことばが放つ光がさし示すのは
どこでしょう?
それは神さまが
私たちを導き入れようとしている良い地


神さまが
私たちにみことばを与えてくれているのは
私たちを良い地に導くため。


私たちがどこにいても、
みことばの光を見つめさえするなら、
どちらに向かって行けば
神さまの良い地にたどり着くことができるのか、
知ることができます。


その光が方向を見失うことは
決してありません。

悪いものに巻かれない

「異邦人たちは、
あなたがたが一緒に、
度を越した同じ放蕩に走らないので
不審に思い、中傷しますが…。」
(Ⅰペテロ4:4
 
 
 
悪いことをしようとする人たちは、
仲間を作ろうとします。
やりたい人を仲間にするだけなら
まだいいけれど、
やりたくないと言っている人も
引きずり込もうとする。
 
 
 
たとえば5人グループで
4人がやっちゃおうぜ、って言っているときに、
自分1人はやりたくないと思っても、
それをはっきり言うのは
なかなかむずかしい。
 
 
 
勇気を出して「それはよくない」
って言ったりすると、
「何一人だけいい子になろうとしてるんだよ」
なんて言われたりして。
 
 
 
悪いことをしようとする側が
多数派だからって大きな顔をして、
正しいことをしようとする側は
少数派で悪口を言われ、肩身の狭い思いをする。
 
 
 
明らかにおかしいことだけど、
今日のみことばを見ると、
実は聖書が書かれたずっと昔から、
人は同じことをしている。
罪は人を巻き込もうとするのです。
 
 
 
正しいことを言ってる人の方が、
だんだん自信がなくなってきて、
そのうち「まちがってるのは自分?」
なんて気がしてくることもある。
 
 
 
けど、いやいや、
そんなことは決してない!
 
 
 
正しいことなら
少数派でも自信を持ちましょう。
神さまはちゃんと見ています。
どんなに向こうが多数派でも、
悪いものに巻かれてしまうことから
守ってもらいましょう。
 
 
 
どうやって仲間にならないか
には、勇気と知恵が必要だけど、
その勇気と知恵をくれるのは神さまです。

何も足さない、何も引かない

「私があなたがたに命じることばに
つけ加えてはならない。
また減らしてはならない。」
(申命記4:2
 
 
 
私たちは具合が悪くなると、
お医者さんで診てもらい、
薬をもらってきます。
 
 
 
風邪とかインフルエンザとか、
一時的に具合が悪くなったときは、
薬は5日間くらい飲めばそれで終わり。
 
 
 
でもたとえば血圧の薬みたいに
ずーっと飲む薬もあります。
飲まないと大変なことになる可能性があるけど、
ちゃんと飲んでいれば、
ふつうの生活を送ることができます。
 
 
 
薬を飲むときに大切なことは、
時間と量を守ること。
飲めば効くからといって、
一気にたくさん飲んだりしたら、
それこそ救急車騒ぎになってしまうことも。
 
 
 
自分で勝手に多くしたり減らしたり
しないことがとっても大切なのです。
 
 
 
神さまのみことばも同じです。
聖書だけじゃ不十分といって、
なにかをつけ加えると、
たいてい“異端”と言われているものに
なっていきます。
 
 
 
でも、この部分は今どき古いから。
この部分は理性で理解できないから。
といって減らしてもいけません。
 
 
 
このような考えは、
“自由主義”と言われる、
聖書を神さまのことばと信じない行き方に
なっていきます。
 
 
 
神さまが私たちに与えてくれたみことばは、
与えられているそのままで
必要なことはすべて書いてあり、
不必要なことはなにも書かれていない。
 
 
 
私たちが神さまを信じる、というのは、
つまり、聖書のみことばを信じる
=そのまま受け取る
ということなのです。
 
 
 
そして信じた人には、
書いてある祝福が書いてあるとおりに
実現するのです。