神さまのバリア
「主の使いは、
主を恐れる者の周りに陣を張り、
彼らを助け出される。」
(詩篇34:7)
“結界”ということばがあります。
悪いものが入って来られないように、
なんかのパワーで自分のまわりに
バリアを作ること。
もともと他の宗教の言葉だから、
みことばの説明に使うのはどうなんだろう、
・・・なんだけど、
若いみんなにはこれが一番
イメージ的にわかりやすいかな、
と思うので、あえて。
え、でもそれは、
まことの神さまを信じない怪しい宗教が
言ってることでしょ、と思いきや、
このみことばは、
まさにそういうことを言っているのです。
神さまは私たちのまわりに
結界ならぬ
守りのバリアを張ってくれている。
私たちのまわりには、
私たちを傷つけるマイナスパワーが
いろいろと働いています。
私たちの生活、健康、人間関係・・・
などは、ひょっとした拍子に、
ガラッと崩れてしまうことがありえるし、
最近しょっちゅう起きている
台風や地震や豪雨などで
日常が突然すっかり変わってしまう
ということもあるでしょう。
でも、それが「私」という存在そのものも
こわしてしまうかと言えば、
それは別の話。
神さまは、神さまを恐れる人、
一人ひとりの「私」の周りにバリアを張って、
いろんな負のパワーに「私」が
やられてしまわないように守ってくれる。
私たちと神さまの関係が
しっかりつながっているかぎり、
マイナスパワーが周りでどんなにうごめいていても、
それで私たちがやられてしまうことは
決してないのです。
神さまのバリアが
守っていてくれるからです。
元気のもと
「主があなたがたの心を導いて、
神の愛とキリストの忍耐に
向けさせてくださいますように。」
(Ⅱテサロニケ3:5)
これがあれば自分は元気になれる
っていう元気のもと、
何か持っていますか?
体ならとにかく寝る!
スタミナ料理を食べる。
即効性を期待するなら栄養ドリンク?
気持ちなら
好きな音楽や映画、旅行。
それとも、ただボーっとする?
最近は“推し”を見るのが元気のもと
っていう人もいるみたい。
じゃあ、信仰に元気がほしいときは
どうだろう?
信仰に元気がなくなるのは、
いろんな原因があると思うけど、
神さまがしてくれたこと、
してくれてることが見えなくなってる、
っていうことが多い気がする。
自分の大変さや、やりたいことが
神さまより大きくなっちゃう。
って言ってもいいかもしれない。
そういう時に思い出したいのが
今日のみことばに書いてある
神さまの愛とイエスさまの忍耐。
神さまは、とにかくいつでも
どんなときでも
私たちのことを一番大切に考えてくれてる。
神さまがすることは
ぜんぶ私たちの益のため。
ひとり子のイエスさまも送ってくれた。
そしてイエスさまは、
私たちのためにひたすらがまんしてくれた。
私たちは自分ががまんしてる、
って思ってるかもしれないけど、
イエスさま以上のがまんをした人は
だれもいない。
神さまの愛とイエスさまの忍耐。
だれかじゃなく、みんなじゃなく、
この自分に注がれてる、ってわかること。
これが私たちの信仰の元気のもと。
めでたしの続き
「私たちは見えるものにではなく、
見えないものに目を留めます。
見えるものは一時的であり、
見えないものは永遠に続くからです。」
(Ⅱコリント4:18)
白雪姫、シンデレラ、美女と野獣・・・
プリンセスが出てくる童話は、
いろんな困難を乗り越えて、
プリンセスが王子さまと結ばれ、
めでたし、めでたし、で終わります。
ハッピーエンドは
まあ、幸せな気分になれるし、
童話だからいいんだけれど、
「いつまでも幸せに暮らしました」
ってほんとなの?
ってちょっと思ってしまいます。
結ばれることは一つのゴールだけれど、
その先には必ず続きがある。
ほんとうは、結ばれるまでより、
結ばれてからの方が大事、
って言ってもいいくらい。
ハンサムな王子さまと結ばれることは、
一つのこと。
続きもずっとハッピーにうまくいく、
っていうのは、もう一つのこと。
目に見えるものだけを大事に
人生を生きるのは、
結ばれさえしたらそれですべてオッケー、
って考えるようなもの。
私たちの人生は、
見えるものがなくなったら
それで終わりじゃなくて、その先がある。
体に終わりが来ても、
心とたましいには終わりがなくて永遠に続く。
だからそこがどうなるかが、実はずっと大事。
見えるものをゲットすることだけに気を取られてると、
続きがあることを忘れてしまう。
だから、気をつけてね。
今日のみことばはそう言っているのです。
負ける人の勝ち
「他人は救ったが、自分は救えない。
キリスト、イスラエルの王に、
今、十字架から降りてもらおう。
それを見たら信じよう。」
(マルコ15:31,32)
リーダー対みんなであそぶじゃんけんで、
後出しで負けるが勝ち、
っていうあそび方があります。
じゃんけんぽんぽん!
て、「ぽん」を2回言います。
1回目にリーダーが出したものを見て、
2回目のぽんでは、
リーダーに負けるものを出す。
っていうあそび方。
リーダーがなにを出したかちゃんと見て、
後から出すんだから、
楽勝に思えるけど、
これが意外とむずかしい。
ちゃんと考えないと、
無意識に勝つものを出してしまいます。
「相手に勝つのを出そう」っていうのが
すり込まれてるんですね。
じゃんけんだけじゃありません。
「勝ち組」「負け組」なんて言うことばが
できるくらい、
人は人に勝つことがいいことなんだ、
とすり込まれている。
「十字架についたイエスさまは
自分を救えなかった」、
と言っているこの人々の言葉も、
まさしくこの考えをあらわしています。
でもほんとうにそうなのか?
それはちがうんだよ、
と言っているのが聖書です。
それを私たちが見える行動にして見せてくれたのが
イエスさまの十字架。
人を支配するんじゃなく、仕える。
取り上げるんじゃなく、さし出す。
やっつけるんじゃなく、受け入れる。
それができるとき
人はほんとうに幸せになれる。
それができることがほんとうの強さ。
それをさせてくれるのが
イエスさまの十字架なんだよ。
と言っているのです。
無理がかからない
「第一の戒めはこれです。
『…主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、
知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。」
(マルコ12:29)
今年の夏はとにかく暑かったから、
扇風機が大活躍。
出てくる風が熱風でも、
あるとないでは大ちがい。
なんだけど、
しばらく前からちょっとカタカタいってるのが、
気になる…。
もしかして羽を留めてるネジがゆるんだ?
脱水機がちゃんと回らないでガタガタいう。
駒がまっすぐ回らないでグラグラする。
原因はみんな同じ。
それは、中心がちゃんとしてない、ってこと。
回るものは、
中心がゆるんだりずれたりすると
いろいろ支障がでてきます。
中心がしっかりしていれば、
よけいな音を立てずに安定してしっかり回る。
私たちの人生の中心は何でしょう?
それは、ただお一人の神さまなんだよ、
とイエスさまは言いました。
ただお一人の神さまをしっかり中心にして、
神さまを第一にして歩む。
そうすると、
私たちの人生は余計な音を立てないで
まっすぐ安定して回ります。
神さまが中心からずれていたり、
ほかのものを中心にしようとしたりすると、
ガタガタいったり、グラグラしたり、
「だいじょうぶか?!」
っていつもハラハラドキドキしながら見守る
っていうことに。
「わたしを第一に、
人生の中心にすえなさい。」
それは決して神さまのムチャではありません。
私たちは神さまに造られて、
神さまが造った世界に生きている。
だから、神さまを中心にするのが
いちばん無理がかからない自然な姿なんです。