もっと大きいかも

「求めなさい。
そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見出します。
たたきなさい。そうすれば開かれます。」
(マタイ7:7
 
 
 
ことばの意味はよくわかるし、
ものすごくいいみことば。
だけど、正直ほんとかな、
って思うみことばでもあるかもしれません。
 
 
 
それは、
お祈りしたけどそのとおりにならなかった
っていう経験があるからでしょう。
 
 
 
なぜそうなのか、チェックポイントは3つ。
1つはほんとに求めたか、ってこと。
「求めなさい」は、「求め続けなさい」の方が
正確な訳なんだそう。
 
 
 
ちょっと求めてやめちゃってないか。
まあ、与えられなくてもしょうがないな、
と最初から思ってないか。
ここ、第1ポイントです。
 
 
 
2番目は、
それはほんとに自分に必要か、ってこと。
 
 
 
自分はほしいな、あったらいいな、
と思ってるから求めるわけだけど、
それを手に入れることが
自分にとってほんとにいいことかどうか。
それはまた別の話。
 
 
 
お祈りしながら、
与えられない時間が過ぎていくとき
確かめたいことは、
それを手に入れることはほんとに必要で、
自分の益になることなのかな?
 
 
 
そして3番目は、
なんのために求めてるか、ってこと。
ヤコブの手紙には
「自分の快楽のために使おうと、
悪い動機で求める」なら求めても与えられない。
って書いてあります。
 
 
 
このポイントをチェックしてると
自分ではないと思っていた心の奥底の“本音”が
見えてくることがあります。
それは自分がほんとに取り組むべきことは何かを
教えてくれる。
 
 
 
与えられないように見えるときに得るものは
すぐに与えられたときよりも
大きいものかもしれません。
 

もっとたっぷり

「私は あなたが行く道で
あなたを教え、あなたを諭そう。
あなたに目を留め 助言を与えよう。」
(詩篇32:8
 
 
 
ペットを飼うとき、
檻やゲージに閉じ込めて飼うのでなければ
必ず必要なのが“しつけ”です。
 
 
 
それは、飼い主のためだけじゃなく、
ペット自身が快適に過ごすためにも大切。
いろんな危険な目に合ったり、
コミュニティの中で過ごしにくくなったりすることが
ないため。です。
 
 
 
しつけるときは、
無理やり言うことを聞かせようとするんじゃなく、
信頼関係を大事にするといいみたい。
 
 
 
自分を傷つけようとしていない、
意味のわからないことで怒ったりしない、
それがわかればぐっとうまくいくらしいです。
 
 
 
私たちはペットじゃないけど、
神さまの助言も
私たちを言いなりにして力を見せつけるためではなく、
私たちの安全と祝福のため。
 
 
 
聞きたくないという心を持っていると
くつわや手綱で無理やり引っぱられるような
気がしちゃうかもしれない。
 
 
 
でも、自分のためを思ってくれてる
っていう信頼があれば、
無理ムリ感がなくなっていい感じ☆
 
 
 
私たちはペットどころじゃなく
大事なだいじな子ども。
神さまの愛情は、
もっとたっぷり注がれているのです。

最初のボタン

「何を食べようか何を飲もうかと、
自分のいのちのことで心配したり、
何を着ようかと、
自分のからだのことで心配したりするのは
やめなさい。」
(マタイ6:25
 
 
 
小っちゃい子が
自分で着がえができるようになっていくとき、
よくあるのがボタンのかけちがえ。
 
 
 
いっしょうけんめいはめていくけど、
あれ、最後のボタンを入れる穴がない…。
それは、最初のボタンを
正しい穴に入れてなかったから。
 
 
 
最初がまちがってしまうと、
途中はよくても最後がどうしても合わなくて、
ま、いっか、とも言えず、
やっぱりやり直すことに。
 
 
 
今日のみことばで
イエスさまが言おうとしたのは
どういうことなんだろう。
 
 
 
心配しちゃいけないんだから、
おいしいものを食べようと思ってはいけない。
おしゃれをしてはいけない。・・・?
 
 
 
そういうことではないね。
 
 
 
食事はおいしい方がいいに決まってるし、
服はその場その場に合わせて
自分に似合うものを着た方がいいに決まってる。
 
 
 
だけど、そのことだけで
心がいっぱいになっちゃったらだめだよ。
イエスさまはそう言おうとしたのです。
 
 
 
私たちがどんなに心配しても
のばすこともちぢめることもできないいのちを
与えてくれた天の神さま。
 
 
 
私たちという存在のおおもとであるその方を
うやまい尊ぶ心を持つことが
私たちが最初にかけなきゃいけないボタン。
 
 
 
そこが確かでしっかりしていれば、
あとはちゃんとうまくいく。
必要なものは神さまがちゃ〜んと知っていて、
ちゃ〜んと与えてくれる。
 
 
 
だから最初のボタンをまちがえないでね。
イエスさまはそう言っているのです。

かしこく生きよう

「主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」
(箴言1:7・新共同訳)
 
 
 
サッカーワールドカップが終わった後の
インタビューの中で
本田選手が言ったことばで、
みんながちょっとザワザワしました。
 
 
 
今の気持ちは?って聞かれて、
「清々しい(すがすがしい)」って言うところを
「きよきよしい」って言っちゃったんですね。
 
 
 
でも本田選手は、
自分がまちがったことを率直に認めて
ちゃんと訂正しました。
とてもいさぎよくて、
まさに清々しかったと思います。
 
 
 
いかにも物事を知ってるような顔つきで、
まちがってることをわかってるふうに言うって、
かなり恥ずかしいです。
 
 
 
だけどそれがあまりに自信満々だと、
まちがってるよ、って言っていいのか悪いのか、
わからなくて、ただ苦笑…なんてこともあります。
 
 
 
人にとっていちばんかしこい生き方は、
神さまを畏れて
(神さまがいて見てることを計算に入れて)
生きる生き方。
それが知恵の第一歩なんだよ、
とみことばは言っています。
 
 
 
それなのに、神さまなんかいなくても
やっていけるさ、生きていけるさ、
と言っている人は、聖書的に言えば、
物知り顔でまちがいをとうとうと述べている
イタい人。
 
 
 
神さまを畏れるというところから始まらない
人生は、永遠というものさしで見たら、
なにも残らないむなしい人生。
 
 
 
第一歩をまちがえると、
最初のちがいはほんのちょっとのように見えても、
最後はとんでもないちがいになっちゃう。
 
 
 
だから、自分がやろうとすることが
神さまを畏れる、というところを頭に入れてるかどうか。
そこのところ、
いつもしっかり確かめましょう。

ちょうどよいとき

「ですから、あなたがたは
神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
神は、ちょうど良い時に、
あなたがたを高く上げてくださいます。」
(Ⅰペテロ5:6
 
 
 
えへへ、と薄く笑いながらペコペコして
「おっしゃるとおり」と言う。
ほんとに思ってるかどうかは別にして、
「私なんか、なにもできません」と言う。
 
 
 
へりくだる、という言葉は、
会社とかご近所とか、世の中では
そんなふうに思われてることが
多いかなと思います。
 
 
 
確かに辞書でも、
「相手を敬って自分を控えめにする。
卑下する」
「相手を立てるためにわざと自分を低く見せる」
ってなってます。
 
 
 
…だけどこれだと、
ぜんぜん心がともなってなくて、
うわべだけ。だよね。
それを神さまにも当てはめる…?
それはなんかおかしい。
 
 
 
じゃあここで“へりくだる”って言ってるのは
どういうこと?
 
 
 
それは今の自分や自分の状況を
そのまま受け入れること。
神さまが置いてくれた場所と受けとめて、
文句を言わず黙って
やることはやりながらじっと待つ。
 
 
 
そのままずっとがまんしてろ、
とみことばは言ってません。
なぜそうするのか。
それは「神さまが、ちょうど良い時に
高く上げてくださる」からです。
 
 
 
ちょうど良い時っていつなの?
それを早く知りたい!
って私たちは思ってしまうけれど、
それをだれよりもよく知ってる神さまにまかせる。
それがへりくだるのポイントだと思います。
 
 
 
そこをまかせるのが信頼のいちばんのあかし。
そしてそういう人を、
神さまは必ず高く上げてくれるのです。