もう一つのカギ

「その人は流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。」
(詩篇1:3


同じことばを聞いても、
人によって思いうかべるものがちがう、
ということがあります。


たとえば、よく言われるのが投げる
一般には物をほうり投げることだけど、
地方によっては捨てるっていう意味になるんだそう。


そこらへん、よく確かめないでそのまま次に進むと
あれ、おかしいな、
っていうことになることもあります。


神さまと聞いて思い浮かべることも、
たぶん人によってまちまち。
神さまを信じると言っても
ぜんぜん別のことを考えてることがあるかもしれません。


だから、みことばが大事。
「神さまにつながって神さまに信頼する」、
というときも、その神さまはどんな神さまで、
信頼するっていうのはどういうこと?


それはみことばを見て初めてわかるのです。
だからみことばにしっかり親しんで、
いつも心を向けながら、
そこに書いてあるとおりにする。


流れのほとりに植えられて枯れない人
っていうのはそういう人なんだよ、
と今日のみことばは教えてくれています。


きのうのみことばととても似ているけれど、
神さまを信頼することと
みことばにつながっていることが、
とても深くかかわっているのが
わかりますね。


どんな時にもみことばから離れない。
それが私たちが流れにつながって
暑くても枯れずに守られるために大切な
もう一つのカギなのです。

ひからびない

「主に信頼する者に祝福があるように。
…その人は、水のほとりに植えられた木。
流れのほとりに根を伸ばし、
暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、
日照りの年にも心配なく、
実を結ぶことをやめない。」
(エレミヤ17:7,8
 
 
 
この前、朝バタバタしてたら、
植木に水をあげるのをすっかり忘れちゃって、
お昼も過ぎてふと気がついたら、
花と葉っぱはしなしな、枝もぐったり…
うわあ、いけない!
 
 
 
ごめんごめん、と言いながら、
あわてて水をあげました。
夜になってから見たら、
何とか元気を取り戻してたのでホッとしました。
 
 
 
鉢植えの草花は、
土が鉢の大きさ分しかないから、
水をあげるのを忘れると大変です。
 
 
 
私たちの人生にも
じりじりと焼けつく日照りのような
大変で苦しいときを過ごさなければならないことが
あるかもしれません。
 
 
 
そんなとき、
もし私たちが“自分”という器しか持っていなかったら
たいへんです。
ちっちゃいもんね・・・
 
 
 
あっという間にカピカピになって、
もちこたえられず、ぐったりしてしまうでしょう。
重症だと、もとの元気を取り戻せなくなる、
ということもあるかもしれません。
 
 
 
そういう心配がないためには
水源につながっていることが大事。
 
 
 
私たちが水源につながる。
それは、神さまに信頼することなんだよ。
と聖書は言っています。
 
 
 
神さまに信頼する。
それは、ただ神さまがいることを信じている
っていうだけじゃなくて、
毎日一つ一つのことを神さまに心からより頼むこと。
 
 
 
そうすればもう干からびる心配はありません。
神さまの水源はぜったいにかれないから。
 
 
 
今日もしっかり私たちの信頼の手を
神さま、っていう水源にのばしましょう。

いつも新鮮

「主の慈しみは決して絶えない。
主の憐みは尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
『あなたの真実はそれほど深い。』」
(
哀歌3:22,23・新共同訳)



西日本の豪雨災害が大変です。
道路をふさいだり、家に入り込んでしまった泥を
取り除くために
この暑さの中みんな懸命にがんばっています。







それにしても大変だと思うのは、

まだ水が出ないところがたくさんあること。

泥を片づけようとしているのに

水がない・・・どんなに困るでしょう・・・。


普段、私たちは水道を
何気なく使っています。
蛇口をひねればいつでも新鮮な水が出る水道。


こういうことがあると、
それがどんなにありがたいことか
よくわかります。


神さまの慈しみと憐みも
絶えない。尽きない。
しかも、朝ごとに新しくなる。


それは、蛇口をひねると
いつでも新鮮な水がでるようなもの。


慈しみと憐み。それは、
神さまがいつでも私たち一人ひとりを
いとおしく大切な存在と思ってくれてて、
困っている私たちを何とかしてあげたい
って思ってくれてる。ってこと。


その気持ちが、一度もらったものを
取っておかないとなくなっちゃうんじゃなく、
毎日新しく注がれているのです。


今日も注がれています。

きっぱり

「糸一本、履物のひも一本さえ、
私はあなたの所有物から何一つ取らない。
それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』
とあなたが言わないようにするためだ。」
(創世記14:23



スーパーなどに行くと、
よく″試食″をやっています。
あなたは食べる派ですか、
それとも、食べない派ですか。



買うつもりがあるなら、
食べてもいいかなと思うんだけど、
買うつもりがまったくないときはどうでしょう。



試食なんだから、別にいいんじゃない?
食べたからって、
買わなきゃいけない義務はどこにもない。
確かに、理屈はそのとおりなんだけど…。



食べたことで、
買わなかったら何か悪い気がしてくる、
ということもあります。
ただで食べた、ということが″借り″になって、
断りにくくなっちゃうんですね。



アブラムは偶像の町ソドムが略奪されたとき、
全力をあげて勇敢に取り返しに行きました。
もちろん、ロトが住んでいたということもあるでしょう。
でも、偶像の町だから知らない、
と知らん顔するようなことはしませんでした。



でも、お礼に財産を取っていいよ、
と言われたときにはきっぱりことわりました。
それで借りができてしまって、
恩を着せられないためです。



借りがあると、次にことわりたいことがあっても
ことわれなくなってしまうかもしれません。



せっかくの申し出をことわるのはもったいない、
それでご近所の人間関係にひびが入ったら
逆に困るんじゃ…と思えるような状況でも、
相手が偶像の神に関わっているようなときには
きっぱりことわることが大切です。



その時は損、と感じることがもしあっても、
まことの神さまでないものとは
きちんと線を引いておくことの方が
ずっと自分のためになるのです。
 

あなたがいる場所から

「さあ、目を上げて、
あなたがいるその場所から
北、南、東、西を見渡しなさい。」
(創世記13:14



白馬の王子さまのようなだれかが現われて、
今自分がいやだな、困るな、と思ってるところから
ぜんぜん違うところに連れてってくれて
何の苦労もなく
一生をらくらく過ごせる…。



祝福って聞くと、何か特別なこと、
毎日のかわりばえしない同じような日常とは
別のところにあるものと思うかもしれません。



キラキラと光り輝く夢の世界。
もしこうだったら…、ああだったら…、
妄想はあちこちへとふくらみます。



でも神さまの祝福は
私たちの日常とかけはなれたところにあるものでは
決してありません。
今自分がいるその場所から始まっているのです。



甥のロトは、どこもよく潤っている
緑豊かな低地を選んで別れて行きました。
アブラムに残されたのはあまり繁栄していない
地味な場所。



でも神さまは、「あなたがいるその場所から」
と言いました。



どこか別のところへ行かなければ
祝福は手に入らない、と思っているあいだは、
祝福を見つけることは
たぶんできないでしょう。



私たちが今いる場所。
神さまにさからって自分で選び取ったんじゃなければ、
そこが、神さまが私たちを置いてくれた場所です。



神さまは、そこがどんな場所であっても、
そこから祝福を始めることができるのです。