メーカーが確かだから

「しかし、あらゆる恵みの源である神、
すなわち、キリスト・イエスを通して
あなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、
しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、
強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」
(Ⅰペテロ5:10・新共同訳)
 
 
 
どれを買うか決めるとき、
メーカーは大事なチェックポイントです。
 
 
 
見た目もスペッもほぼ同じものが二つあったら、
メーカーを見て、
少し高くてもお気に入りのメーカーのものを買う、
っていうことありますよね。
 
 
 
それは、そのメーカーのものを買って
使ってみたことがあって、
そこが作っているものなら確かだ、って
わかっているからです。
 
 
 
すべての恵みの源、つまりメーカーは神さま。
神さまはイエスさまを信じた私たちを
永遠の栄光に入ることできるように、
招いてくれました。
 
 
 
仕方ないから入れてやる、ではなく、
神さまの方からおいで、って言ってくれたのです。
 
 
 
どんなにがんばっても、
自力ではとどけなかった永遠の栄光に
入れるようにしてくれた神さま。
 
 
 
そのことを一度経験している私たちは、
次に神さまがしてくれることも確かだ
って信頼できます。
 
 
 
次にしてくれること。
それは、今は苦しいことがいろいろあって、
弱かったり、グラグラしたりしている私たちを
強くしてくれる。揺るがないようにしてくれる。
 
 
 
自分は弱くていやだな、
すぐにグラグラしちゃっていやだな、
強くなりたい、グラグラしない者になりたい、
そう思っても、自分ではなかなかできません。
 
 
 
でも、すべての恵みの源である神さまがしてくれる、
っていう約束。
メーカーが確かだから、
きっとそのとおりになる、って信用できます。
 

言ったとおり

「わたしを信じる者は、
聖書が言っているとおり、
その人の心の奥底から、
生ける水の川が流れ出るようになります。」
(ヨハネ7:38
 
 
 
ほんとに信用できる人って
どんな人?
 
 
 
いろんな意見や考え方があると思うけど、
信用っていう意味でいちばん大切なのは
自分が言ったことはそのとおりにする
っていうことじゃないかなと思います。
 
 
 
私はやります!と言うだけなら簡単。
人を見てこうすべき、ああすべき
と言うだけなら、それも簡単。
 
 
 
でも、じゃああなたはやってるんですか、
できるんですか、と聞かれたら、
けっこうできてないこと、できないことが
多かったりする。
 
 
 
自分が言ってることとやってること。
少なくともなるべく近づけるように
心がけて努力したいところ。
 
 
 
ちょっと横道にそれるけど、
やるやる言わない。人のこともあれこれ言わない。
だけど黙ってやることはやる。
これ、いちばんカッコいいと思います✨
 
 
 
今日のみことばで注目したいのは、
“聖書が言っているとおり”っていうところ。
聖書が言っているとおり、っていうのはつまり、
神さまが言っているとおり。
 
 
 
神さまはいったん言ったら、
必ずそのとおりに実行するお方。
 
 
 
イエスさまは自分が来たことも、
自分がしていることも、
全部聖書が言っているとおりなんだよ、
とくり返し言いました。
 
 
 
イエスさまが来てくれたこと、
そのものが、
神さまが言ったことをその通りにしてくれることの
あかしでもあるのです。
 
 
 
言ったら必ずやってくれるって、
ほんとにありがたいです。

名前があるよろこび

「入ることができるのは、
子羊のいのちの書に記されている者たち
だけである。」
(黙示録21:27
 
 
 
入学試験の合格発表。
そこに自分の番号があった時のうれしさは、
何とも言えません。
 
 
 
やった!っていう感じ、
ホッとした、っていう感じ、
いろいろ入り混じったうれしさが
体じゅうにこみあげて思わずガッツポーズ!
 
 
 
今は結果をインターネットで見れるから、
ひっそり喜ぶ感じもあるのかな?
前は、はり出された掲示板の前で胴上げ、
なんてこともありました。
 
 
 
そこに自分の番号があれば入れる。
それが合格発表。
入れる喜びがあふれるのが合格発表です。
 
 
 
天国に入れるのは
子羊のいのちの書に名前が書いてある人。
そこに書いてあるのは、
まことの子羊イエスさまを信じた人たちの名前です。
 
 
 
入試の合格発表に自分の番号があるかどうかは
自分の行き先が決まる、
人生変わるって言ってもいい大問題。
 
 
 
でも、いのちの書に名前があるかどうかは、
それどころじゃなくもっともっと大事です。
それは永遠をどこで過ごすか、
それをまっぷたつにわけることだから。
 
 
 
イエスさまも
名前が天に書き記されていることを喜びなさい、
と言いました。
 
 
 
そんなにいいことなの?
別にたいしてちがわないんじゃない?
なんてもし思ってたら、たいへんです。
 
 
 
自分の名前がいのちの書にあるかどうか、
どうやってわかりますか?
それは、十字架を信じて罪から離れていること。
それが確かなら、だいじょうぶです。

イケイケだけでもない

「あなたがたは真理を知り、
真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネ8:32
 
 
 
去年の今頃亡くなった小林麻央さん。
34歳という若さでとても残念なことでしたが、
闘病の中でつづったブログは、
同じ病に苦しむ人たちの励ましとなりました。
 
 
 
ブログが話題になったころ、
ちょっとのぞいてみた時に
心に留まったことがありました。
 
 
 
癌だってわかる前の1年以上、
麻央さんは果てしなく疲れて疲れて
とても大変だったんだそうです。
 
 
 
でも妻として、母として
やらなければならないことは山ほどある。
だから自分のからだにムチ打って、
それをこなしていたんだそう。
 
 
 
癌という診断がくだって
とてもショックだったけれど、
自分のこれまでの疲れはそういうことだったんだ
ってわかり、もうがんばらなくていいんだ、
これでゆっくり休める、と思ってホッとした。
という内容でした。
意味のわからない戦いから解放されたんですね。
 
 
 
 
私たちは聖書を通して
私たちの心の不具合の原因や、
どうすればそれを解決できるのか、
ほんとのことを知ることができます。
 
 
 
自分で何とかしなきゃいけないんじゃなくて、
神さまが解決してくれるんだ。
それがわかるのは、
どんなにホッとできることでしょう。
 
 
 
真理が私たちを自由にする。
イケイケなイメージがある自由っていうことばだけど、
こういうホッとして安心できる、
っていう意味もあるんじゃないかなと思います。
 
 
 
ほんとのことをちゃんと知る。
とても大切なことです。
私たちの心についてそれを教えてくれるのは
聖書だけなのです。

ホッとすることば

「しかし、彼らが問い続けるので、
イエスは身を起こして言われた。
『あなたがたの中で罪のない者が、
まずこの人に石を投げなさい。』」
(ヨハネ8:7
 
 
 
非難が殺到して
どうしようもなくなる“炎上”。
 
 
 
自分が被害を受けた、損をした、
っていうならまだしも、
まったく関係ない人まで寄ってたかって
ものすごくえらそうな言い方でまくしたてるって
どうなの?って思うよね。
 
 
 
人のことを非難しても
自分のためになることなんて一つもないけど、
「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物。
腹の奥に下って行く。」
って箴言に書いてあるとおり、
人は他人の悪口を言うことが大好きなんだね。
気をつけよう。
 
 
 
それは「人がした悪を心に留め」ない愛
とは真逆で、
まさに愛のない行い。
 
 
 
イエスさまは、
「この女がしたことはどうなんですか!」
ってつめ寄る人たちに言った。
「あなたがたの中で罪のない者が
まずこの人に石を投げなさい。」
 
 
 
人が他人のことを責めるとき
ほぼ自分のことは棚に上がっている。
あなたたちは、この人を責める資格があるんですか、
とイエスさまは言ったのだ。
 
 
 
人を見る前に自分をよく知る。
これがとても大事。
自分の心をよくよく見つめれば、
人のことをあれこれ言える自分じゃない
ってきっとわかる。
 
 
 
自分の心をちゃんと見て認める。
それは、がっかりしたり、
つらくて悲しいことだったりするけど、
そんな私たちにイエスさまは
「わたしもあなたをさばきませんよ」
って言ってくれる。
なんてホッとすることばだろう。