イエスさまの手にかかれば

「イエスは…
ご自分が何をしようとしているのかを
知っておられた。
ピリポはイエスに答えた。
『一人ひとりが少しずつ取るにしても、
二百デナリのパンでは足りません。』」
(ヨハネ6:6,7
 
 
 
二百デナリのパン。
ふつうじゃなくがんばれば、
そのくらいは自分たちで何とかできるかもしれない
とピリポは考えました。
 
 
 
だけどそんなにがんばったからって何になる?
目の前にいる人たちの人数を見たら、
どう計算してみても、とても足りません。
 
 
 
私たちもクリスチャンとして歩んでいるときに
この世の中の現実のでっかい必要をつきつけられて、
さあ、どうなんだ、
おまえが持っているものでなんとかできるのか、
と聞かれたら、
「ムリ」と答えるしかないかもしれません。
とてもじゃないけど、計算が合わない。
 
 
 
だから、だめだ。
自分の信仰なんて、現実の戦いには意味がない。
と思ったら、ちょっと待った!
イエスさまが、かやの外に行っちゃってますよ!
 
 
 
私たちが持っているのはごくわずか。
なんの意味もないように見えるちょっぴり。
でもイエスさまは、わたしならそれを使って、
現実に間に合う力と祝福に変えられるよ、
と言っているのです。
 
 
 
この時イエスさまは
ご自分がしようとしていることを知っていた。
つまり最初からご自分が
その必要を満たすつもりだったのです。
でもピリポの信仰を確かめたかったんですね。
 
 
 
イエスさまは今も、
私たちの必要を満たす気満々。
「手もとにあるのはこれだけですけど」
って、私たちがありのままさし出すのを待っています。
 
 
 
どうやって増えるのか、私たちにはわからない。
でも、イエスさまの手にかかれば、
じゅうぶん間に合うように増やしてくれる。
 
 
 
そんなことがあるんだろうかって
考えてる時間があったら、
早く持ってった方がいいのです。

まあ、いっか…?

「イエスは彼が横になっているのを見て、
すでに長い間そうしていることを知ると、
彼に言われた。『良くなりたいか。』」
(ヨハネ5:6
 
 
 
「まあ、いっか」
私たちは、心の中でそんなふうにつぶやくことが
けっこうあるんじゃないでしょうか。
 
 
 
このままがいちばんいいわけじゃないことは
わかってる。
どうなるのがいいかもわかってる。
だけど・・・まあ、いっか・・・。
 
 
 
人の心は簡単じゃありません。
なにが正しいか、なにが一番いいことか、
わからないからしない。のではなく、
わかってても、あえて立ち上がらない
ということがあります。
 
 
 
それどころか今のあまりよくない状態を、
よくないんだよね〜でも仕方ないよね〜と言いながら、
心のどこかで楽しんでいる。
そんなこともあるのです…。
 
 
 
立ち上がれないというより、
立ち上がりたくない。
だから、その場所にずっと座り込んでいます。
 
 
 
でもイエスさまはそんな私たちに問いかけます。
「ほんとにそれでいいの?」
 
 
 
ほんとにそれでいいと私たちが言ったら
それまで。
イエスさまはいらないと言う人に
恵みであっても無理に押しつけることはしないし、
できません。
 
 
 
でも、このままじゃいけないんだ。
このままはいやだと思うなら、
そのことをはっきりイエスさまに言いましょう。
 
 
 
これまで立ち上がれなかった時間が
どんなに長くても、
イエスさまは私たちが自分の足で立ち上がって
歩くことができる力を必ず与えてくれます。

内側からいっぱいに

「この水を飲む人はみな、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む人は、
いつまでも決して渇くことがありません。」
(ヨハネ4:13,14
 
 
 
私たちにとってなくてはならない水。
水がないということは、
私たちの命にもかかわる大問題です。
 
 
 
のどが渇いたときに飲む水のおいしさは格別。
特別な飲み物じゃなくただの水でも、
「あ〜〜、おいしい!」
っていうことばが自然に出てきますね。
 
 
 
水分は気がつかないうちに不足することもあって、
これからの季節は熱中症の危険が。
「こまめに水分を」
自分は関係ないと思わず気をつけましょう。
 
 
 
わたしがあげる水を飲まないと、
心も渇くんだよ。
とイエスさまは言いました。
 
 
 
イエスさまがくれる水を飲む。
それは、イエスさまを自分の救い主
って信じること。
 
 
 
イエスさまを信じない心は、
穴があいたバケツみたい。
なんか満たしてくれるもの、って
外からいろいろさがしてきてどれだけ入れても、
またからっぽになってしまいます。
 
 
 
わたしを救い主、って信じれば
わたしが心の穴をふさいで内側から満たしてあげる。
それがイエスさまのことばです。
 
 
 
もう満たしてくれるものを
必死で外にさがしに行かなくていい。
内側にいるわたしに求めればいいんだよ。
 
 
 
わたしが満たしてあげる。
このイエスさまのことばをほんとうに信じるなら、
だれでも満たしてもらうことができます。
 
 
 
満たされている=楽しい
ではないよね。念のため。

勇気を出して!

「あなたがたは勇気を出しなさい。
力を落としてはなりません。
あなたがたの働きには報いがあるからです。」
(Ⅱ歴代15:7)


神さまにしたがって
これからもクリスチャンとして生きる。
それがいちばん、てわかってるし、
そうしていけたらと思うけどちょっと心配


この世の楽しみを楽しめなくなる?
毎週ずっと教会なんて、続けていける?
みんなとちがう変な人と思われるかもしれない?


アサ王さまも同じような心配をしてました。
神さまに本気出して従って大丈夫かな?
みんなが引いちゃうんじゃないの?
そんな王さまを預言者が励ましたのが
今日のみことば。


ほんとに心を決めてやったら
ぜったいにだいじょうぶだよ。
だから勇気を出して!


どうしてだいじょうぶって言えるの?
それは神さまが、私たちがほんとに心を決めたら
必ず応えてくれる方だから。


神さまの恵みはほしいけど、
そこまでちゃんとしなくても、
この世の楽しみも味わいたいよね。
そう思って両方手に入れようとするのは、
片足を陸地、片足をボートに乗せて
立っていようとするみたいなもの。


グラグラしてものすごく不安定。
そして、立ってるためには変な力がいるから
ものすごく疲れます。
結局水に落ちちゃうことになる可能性も大。


勇気を出して実行した王さま。
人が離れて行くどころか、たくさん集まってきた。
神さまがいっしょにいるのがわかったから。

って書いてあります。


本気の信仰に神さまは答えてくれる。
そして、それはやがて必ずまわりの人にも
伝わっていくのです。
 

ほんとうに助けてくれる

「力の強い者を助けるのも、
力のない者を助けるのも、
あなたには変わりはありません。」
(Ⅱ歴代14:11


野球、サッカー、バスケ、バレー、ラグビー
チームで戦うプロスポーツには
ほぼたいてい外国人が混じっています。
助っ人です。


呼ばれてくる助っ人たちはみんな、
体格とか筋肉のつき方とか、
日本人にはないものを持っていて、
見るからに強そう。


でもその助っ人がいたら
チームも必ず勝つかというと
そうではありません。


助っ人はチームにしか呼べないけど、
チーム戦は一人だけ強い人がいても勝てない。
そこがチーム戦のおもしろいところでもあるけど、
やっぱりそのチームがもともと持っている力が
大きく関係します。


ところが同じ助っ人でも、
神さまが助けてくれるというときには、
助けてもらう方が強いか弱いかは関係ない、
っていうんです。
どういうこと?


神さまはどんなことでも助けることができます。
そして神さまが助けてくれたら
必ず勝つことができます。
でも、それが何のためか、
っていうことがとても大切。


もし自分(たち)がほめられたいから、
人を支配したいから、というためだったら
求めても与えられないでしょう。
神さまの助けがかえって害になってしまいます。


でも、そのことによって
神さまがほめたたえられるなら、
そして心から信じて求めるなら、
神さまは私たちが持っている力がどんなに小さくても
そんなことには関係なく助けることができます。


ほんとうに助けてくれるのです。