どんな響き?

「私はあなたがたを責めるために
言っているのではありません。」
コリント7:3
 
 
 
ことばって、とっても不思議なもの。
こうして文字に打ってしまえば完全に同じでも、
ぜんぜんちがう響きになることがあります。
 
 
 
ものすごくすてきな、
心をあっためてくれる言葉になったかと思えば、
ものすごくイヤな、
心が凍る言葉になってしまうことも。
 
 
 
なぜなんだろう。
それは、それを言った人と自分が
どういう関係かによるんだね。
 
 
 
「こうできるといいね」
っていう何気ない励ましの一言も、
いつも自分のことを考えてくれてる
ってわかってる人に言われたら、
すなおに喜べて、力がわいてくる。
 
 
 
けど、いつもケチをつけるいやな人
って思ってる人に言われると、
できないことを責めてる、
って聞こえちゃうかもしれません。
 
 
 
この人が言ってくれることなら、
たとえ厳しい言葉であっても、
自分のためになることまちがいない、
って思える人を持てたら、ほんとに幸せ。
 
 
 
パウロ先生も、自分の言葉は
責めるためじゃない。
心から思っての言葉なんだってことを
わかってもらいたかったんですね。
 
 
 
神さまが「それはまちがってるよ」
って私たちに言うときも、
できてないことを責めるために言うことは
ぜったいなし。
だから助けたい、と思ってくれてるのです。
 
 
 
その気持ちを信頼して、
みことば読んだり語りかけに耳を傾ける。
そうすると、きっと響きが変わってきます。
 

今からはじめる

「今は恵みのとき、今は救いの日です。」
(Ⅱコリント6:2
 
 
 
みなさんはDVDや録画したテレビを
よく見ますか?
今はそういうのよりYou-tube
っていう人も多いかもしれませんね。
 
 
 
録画したもののいいところは、
見たいところは前に戻して
何回でもくり返し見れるところ。
逆につまらないところは飛ばすこともできます。
 
 
 
でも私たちが生きている実際の生活は
そうではありません。
どんな人もみんな、
同じ方向に同じ速さで進む時間の枠の中で
生きています。
 
 
 
今みんながこれを読んでいる間も、
1秒1秒時間は進んでいますね。
どの時代のどこに住んでいるどんな人にも
1日は24時間、1年は365日。
巻き戻しも早送りもできません。
 
 
 
だから、「今」をどう使うか。
それがいちばん大事です。
私たちが自分でどうにかできるのは
「今」だけだから。
 
 
 
神さまを受け入れ、神さまに従うことも
できるのは今。
 
 
 
今までの歩みがひどかったと
どんなに悩んでもやり直せない。
だからいつまでもくよくよしていないで
今から始めればいい。
 
 
 
いつかそのうちと思っているそのときが
必ず来るかどうか、だれもわからない。
だから示されていることがあるなら
今従った方がいい。
 
 
 
今がある、ってことは
神さまのチャンスです。
のがさないでしっかりつかまえる。
 
 
 
だれかに代わりに
つかんでもらうことはできない。
つかむのは自分なんだ。

完全に新しい別物

「だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、
見よ、すべてが新しくなりました。」
(コリントⅡ5:17


この前お菓子売り場を歩いていたら
ものすごい違和感を感じて立ち止まりました。
なんだろう、って見なおしたら、
そこに並んでいたのは、
なんとゴム製のあの“G”


暗い所が好きでひげが長くて
黒光りするあの昆虫“G”です。
しかも3匹セット


ちっちゃいお菓子が並んでる中で
並んでる“G”は、かなりリアル。
ホイって投げられたら
「ギャッ」って言っちゃうかも。
っていう出来ばえでした💦


それでもふ~ん、
って落ち着いてながめることができたのは、
生きてない、ってわかってるから。
生きてるか生きてないか、
これくらい決定的なちがいはありません。


神さまの働きをたとえるのに“G”ってどうなの。
だし、どっちがいいかを考えると逆かな、なんだけど、
私たちがキリストにあるかどうか、
つまりイエスさまを信じているかいないかは、
これくらい決定的にちがうのです。


罪に汚れていた自分。
やがては死んで滅びなければならなかった自分。
それは過ぎ去りました。


すべてが新しくなったというのは、
すべての罪をゆるしてもらい、
新しいいのちが与えられているということ。


自分の目から見たら
ちがいがよくわからないと思うかもしれないけど、
神さまの目から見たらまったくの別物。
特別に尊い存在になっているのです。