中身はばっちり
「私たちは、この宝を土の器の中に
入れています。」
(Ⅱコリント4:7)
焼き物体験、したことありますか?
お茶碗にしようかな、お皿にしようかな、
考えながら粘土をこねこね。
形ができ上がったら乾かしてから
釉薬(うわぐすり)っていうのを塗って、
焼いてもらうと、
オリジナル食器のできあがり!
初めての人の体験コースとかだったら、
薬はプロの人が塗ってくれることが
多いんじゃないかと思います。
私たちが今使ってるお茶碗やお皿は、
みんなこの薬を塗って焼いているから
きれいな色や柄がついてるし、
表面がコートされてつるつるピカピカ
傷もつきにくくなっていますね。
でもこの薬を塗らないままで焼いたのが
土器、つまり土の器らしい。
きれいな模様とか絵とかついてないし、
あのつるぴかな感じもなくて、
全体はくすんだ赤茶色。
はっきり言って、かなり地味。
表面のコートもないから
水がしみ込みやすいし、割れやすい。
私たちはそんな土の器みたいなもの。
とパウロ先生は言いました。
人の目を引くようなものは特になく、
弱くてもろくてこわれやすい土の器。
だけどそんな土の器のような私たちの心の中に
イエスさまは住んでくれる、
と書いてあります。
立派だから、しっかりしてるから、
ちゃんとしてるから住んであげる、
というのではありません。
イエスさまを信じた人ならだれでも、
土の器のままの心に
喜んで住んでくれるのです。
そのことを私たちも喜んで信頼すれば、
測り知れない力を発揮してくれます。
あけるカギはイエスさま
「それはキリストによって
取り除かれるものだからです。」
(Ⅱコリント3:14)
カギ、何本くらい持っていますか?
まずは家のカギ、それから車のカギ。
これにオフィスとか金庫とかガレージとか
次々つけていくと、
けっこうな束になっちゃいますね。
私がいつも持ち歩いてるホルダーに
ついてるカギは7本。
明らかちっちゃいカギはいいんだけど、
ドアのカギ4本がほとんど同じでまぎらわしい!
夜、外灯も消えてから帰ってきたりすると、
「あれ、ちがった」ってことがしばしば。
3本目も開かなかった、なんてときは
「う〜〜ん!!」ってなります。
ちがうカギをさして開いちゃったら、
困るから、仕方ないんだけどね。
それじゃないと開かない、ってところが
カギの役目だから。
聖書に書いてある救いや恵みを開けるカギは
イエスさま。
イエスさまが自分の罪を自分の代わりに
十字架で負ってくれた。
そのことを信じて受け入れる。
それが救いと恵みの入り口のカギです。
これは最初にイエスさまを信じるとき
だけじゃなくて、
クリスチャンとして歩んでいくときも同じ。
恵みと思えなくなった、
信じる意味がわからなくなった、
感謝ができなくなった、
神さまと自分の間に壁が立ちふさがってる気がする…
そんなとき、
その壁の扉を開けてくれるのは
やっぱりイエスさまだけ。
イエスさま抜きでは
どんなにガチャガチャやっても、
かえってがんじがらめになってしまうでしょう。
自分がなにをしたかよりも、
イエスさまがなにをしてくれたかに、
心の目を向ける。
そうさせてくださいと祈りましょう。
純粋100%のまま
「私たちは、多くの人たちのように、
神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、
誠実な者として、
また神から遣わされた者として、
神の御前でキリストにあって語るのです。」
(Ⅱコリント2:17)
私たちのまわりには
いろんなブランド品があります。
洋服はもちろん、バッグやお財布、靴など。
食べ物にもお米とかお肉とか、いろいろ。
ブランド品は、提供している会社やお店が
こだわりをもって開発した、いい商品。
グッズなら作りがしっかりしてて長持ちするし、
食べ物だったら、まちがいなくおいしい。
その名前がついてたらだいじょうぶ、
っていう信用があるから
お値段は少し高くても、
みんなそれなりに納得して買うんですね。
だから偽物が出回ると、問題になります。
偽物は、よくない材料を使っていたり、
作るときに手抜きをしていたり、
安いものを混ぜて水増ししたりしたもの。
それは品質が悪いものをよいと言って
だますことだし、
何よりも人の信用を裏切ること。
だからバレると、逮捕されることだってあります。
提供するにも、買うにも、
よく気をつけないとです。
神さまのみことばである聖書も同じ。
聖書は神さまのことば純粋100%。
だから書いてあることは書いてあるとおりに
読んで受けとることが大事。
もっとこうがいいなー、って足したり、
これはやだな、って減らしたりしてると、
いつの間にか偽物になっちゃうかも。
そうなると恵みや祝福も
「こんなもん?」てことになっちゃうかも。
ほんもののブランドは、
いいものをキープするために
いつもチェック点検してるみたいです。
私たちもときどきチェック点検、
心がけましょう。
慰めがくれるパワー
「神は、どのような苦しみのときにも、
私たちを慰めてくださいます。」
(Ⅱコリント1:4)
何かを目ざすとき、
どこに目標を設定するかはとても大事。
高い目標はすばらしいけど、
あんまり高すぎるところに設定しちゃうと、
届かない、っていう経験ばっかりが積み重なって、
気持ち的につらいし、自信もなくなっちゃう。
高い目標は持ちつつも、
実現可能なところにプチ目標を置いておくと
達成できた。「よし!」っていう経験が
次へのパワーにつながっていきますね。
「苦しみがなにもなくなる」っていう願いは、
だれの心にもある願いだけど、
それはこの世で生きている間は
たぶんどれだけ願ってもとどかない目標
なんだと思います。
それはこの世が神さまを認めない、
みんなが自分中心の世界だから。
だから苦しみがなくなることはない中で、
私たちが求めるべきなのは
そこを乗り越える力、耐え抜く力(6節)。
それは“どのような苦しみ”のときにも
神さまがくれる慰めが与えてくれる力です。
神さまがこれは慰められない、っていうような苦しみは
どこにもなし。なぜって、
私たちが経験するどんな苦しみよりも大きい苦しみを
神さまの方が先に
私たちのために通り抜けてくれているからです。
楽ばっかりしてる人に慰められても
なんだかなー、だけど、
同じ苦しみを経験した人の存在とことばは
心にしみるよね。
苦しいな、と思うとき、
「なんで、なんで」じゃなく、
「乗り越えさせてください」「必要な力をください」
っていうお祈りは、
必ず私たちの心に力をくれます。
やってみた人だけがわかる力。
ぜひやってみてください。
相手がいるから
「一切のことを、
愛をもって行いなさい。」
(Ⅰコリント16:14)
大相撲夏場所が始まりました。
みんなはほぼ興味なし、かな?
横綱稀勢の里はまた休場らしいけど、
一度けがをしちゃうと大変なんだね。
なんとか挽回できるといいなーと思います。
相撲はまさにガチンコ対決。
道具なんかはいっさい使わないで、
自分が持ってる力だけで
ぶつかり合う勝負です。
変な言い方だけど、相撲は
相手がいるから成り立つんだよね。
勝負を受けて立ってくれる人がいなければ、
もともと相撲になりません。
“愛”も相手があるからこそのもの。
そこにだれもいなかったら愛するもなにもない。
愛してほしい、という願いも、
愛してくれるだれかがいなければ
成り立たない願いです。
だからみことばが
すべての中でいちばん大事なのは愛、
って言ってるのは、
私たちにとっていちばん大事なのは
関わりだ、っていうことなんですね。
ときどき
世界で自分一人だけが生き残ったなんていう
SF映画があったりするけど、
世界で自分一人だけなんて、
自由でいいどころじゃない。
どこまで行ってもだれもいない。
呼びかけても叫んでもだれも答えない。
そんなこわいことはありません。
神さまは私たちが関わりの中で生きるように
私たちを造ってくれました。
私たちの存在は、
神さまやまわりのみんながいてこそのもの。
神さまとみんながいて自分がいる。
だから相手のことを考えて行動する。
愛をもって行いなさい
というのはそういうことです。