がんばりがい
「しかし、神に感謝します。
神は、私たちの主イエス・キリストによって
私たちに勝利を与えてくださいました。」
(Ⅰコリント15:57)
オリエンテーリング、やったことありますか?
キャンプなどのときに、
地図と磁石を使って
いくつか決まったポイントを通過して、
ゴールを目指す、あれです。
ポイントを通過するときには、
スタンプを押してもらったり、
そこに行かないとわからない文字を集めたり、
"確かに通ったよ”っていうしるしをゲットします。
ポイントを通過していなければ
どんなに早くゴールしてもノーカウント。
決まったポイントを通過する。
これが勝つための絶対条件。
クリスチャンにとって、
絶対はずせない通過ポイントはイエスさま。
イエスさまを通らずに
どんなにはりきって
「こんなにがんばってきました!」
と言っても、勝ちをもらうことはできません。
でも私たちが勝つって、どういうことなんだろう。
クリスチャンになっても
必ずうまくいくわけじゃないし、
病気になる人だっている。
勝ってるようには見えないことが
たくさんあるけど?
それは、「死」に勝つこと
って書いてあります。
えーでも、それってずいぶん先のことでしょ?
そんなに大事?
大事なんです!
だって、それがなかったら、
私たちが今めちゃめちゃがんばってること、
悩みながら苦労してることが全部水の泡。
どんなにがんばっても
最後なんにも残らない。何も得られない。
ものすごくむなしいです。
イエスさまっていうポイントを
通過した人だけが、
よくがんばったね、って言ってもらえて、
すべての理不尽から解放してもらえる。
がんばりがいがあるのです。
ことばをつかう
「あなたがたも、
舌で明瞭なことばを語らなければ、
話していることを
どうして分かってもらえるでしょうか。」
(Ⅰコリント14:9)
子どもは3歳くらいになると、
なんでも「ヤダ」って言うようになることが
あります。
逆らってるみたいに見えるから、
最初の反抗期、なんて言われたりします。
でも、子どもの発達をよく調べてみると、
ヤダって言ってるのは、
逆らおうとしてるっていうより、
自分のやりたいことや気持ちが
親が言ってることと微妙にちがうんだけど
それをことばでうまく言えないからなんだって。
なるほどね。
3歳だとやりたいことがいろいろ出てくるけど、
言われてるのとはちょっとちがうやり方で
やりたいってこともあるのに、
ことばではそれがうまく言えない。
だから「そうじゃないんだ」っていう思いが
ヤダ、ってことになる。
自分の思いや考えを
ことばでちゃんと言えるっていうのは
とっても大切なことだと思います。
ことばは人間にとってとっても大事なもの。
自分をちゃんとわかってもらったり、
話し合って理解し合ったりすることは
ことばがあるからこそできるのです。
でもピッタリなことばで表すのって、
けっこうむずかしい。
だからちゃんと言い表そうと思ったら、
ふだんからそういう心がけを
しておくことが大事。
うまく言えないから態度で表しちゃった、
なんてことは
できればしないですむように。
愛してるから
「愛は…苛立たず、
人がした悪を心に留めず、…」
(Ⅰコリント13:5)
日本に来た外国の人が
びっくりすることの一つは、
電車やバスが時刻表通りに来る
ってことらしいです。
日本人はそれが当たり前だと思ってるから、
1分でも遅れるとイライラして、
「どうなってるんだ!」
って文句を言う人がいたり、
「遅れて大変申し訳ございません」
っていう車内放送がくり返し流れたりしますね。
まあ電車やバスの場合は
時刻表っていうはっきりした基準があるから、
イライラする人がいるのもわからなくはないような…
1,2分で大騒ぎすることはないと思うけど。
でもそういうことに限らずに、
イラっとする。イラっとした。
というフレーズをふだんよく聞くと思いませんか。
しばらく前よりも聞くことが多くなった気がします。
なんでそんなにみんな、イラっとするの?
それは結局自分が思ってることに合ってない、
ってことなんだよね。
言葉でもやり方でも態度でも、
相手が自分の思い通りじゃない。
だからイラっとする。
しかもその気に入らなさかげんが、
その日の気分で変わったりして。
そんな基準に合わせろ、っていう要求が
もともとだいぶ無理。だよね。
それは「愛」と合ってないよ、
って聖書は言ってます。
前の聖書では「怒らず」ってなってたけど、
今度の聖書では「苛立たず」になったので、
今朝はここを取り上げてみました。
お互いに「自分」ていうものさしをあてがって、
それに合ってないからって
イライラし合っていたら、
ほんとうにギスギスした社会になってしまいます。
一歩待ってあげる。
自分だけがやってるんじゃなく、
自分もしてもらってる。
ってことを忘れないように。
えー、相手がこの人だと
こっちが一方的に待つことになるんだけど…
っていうときには、
神さまがどれだけ自分を待っててくれてるか
思い出すといいんじゃないかなと思います。
いないと困っちゃう
「あなたがたはキリストのからだであって、
一人ひとりはその部分です。」
(Ⅰコリント12:27)
このみことばは、
イエスさまのからだである教会では、
そこにいる一人ひとりに存在の価値があるんだよ、
だからいていいんだよ、
という意味でとらえられることが
多いのかなと思います。
いろんなことがよく見える目の役割をする人。
情報に詳しい耳の役割をする人。
話すのが上手な口の役割をする人。
いろんな作業をする手の役割をする人。
動き回るのになくてはならない足の役割をする人。…
いろんな役割をする部分があるけど、
全部が集まって一つのからだになってる。
すべてのパーツが必要で、
「これはいらない」というパーツは一つもない。
だからだれも
自分はいてもいなくてもいいと思っちゃだめだし、
お互いにあの人はいらないなんて言っちゃだめだよね。
みんないていいんだよ。
そのとおりだけど、
このみことばにはもうちょっと強い意味も
あるんじゃないかと思います。
そのパーツがなければからだが成り立たない
っていうことは、
そのパーツがなかったら
お互いに困ってしまう。っていうこと。
だから「いてもいい」っていう以上に、
もっと前向き、積極的に、
いなかったら困るからどうしても必要、
っていうことです。
いてもいい存在、じゃなくて
いなくちゃ困る存在。
イエスさまにとって、
お互いにとって、
私たちはみんなそういう存在なんですね。
やってるうちに少しずつ
「私がキリストに倣う者であるように、
あなたがたも私に倣う者でありなさい。」
(Ⅰコリント11:1)
我が家の2人の娘たちが
まだ学校に行かないころ、
長女が次女をしかっている口調や言葉遣いが
あまりにも自分に似てて笑っちゃったけど、
同時に気をつけなくちゃ!と思いました。
子どもって、大人の言うことややることを
とってもよく見ていて、
そのとおりに真似をします。
そうやって、いろんなことができるように
なっていくんですね。
“倣う”というのは、
お手本があって、そのとおりに真似すること。
人が何かを始めるときはほぼ必ず
お手本に倣って始めます。
だから倣うときは、何をお手本にするかが
とっても大事。
クリスチャン生活も同じです。
私たちのお手本はだれでしょうか。
それは何と言ってもイエスさま。
パウロ先生もお手本にしてるって言ってる
ぜったいまちがいないお手本です。
イエスさまだったらどうするだろう…
みことばをよく読みお祈りして、
そのとおりにやってみる。
子どもが親を倣うときを考えればわかるけど、
倣うというのは
1日や2日ではできないこともあります。
最初はうまくいかなくても、
何度も何度もやっているうちに、
少しずつできるようになっていくのです。
私たちがイエスさまを倣うときも同じ。
1回倣ってみてうまくいかないことがあっても、
心配したりあきらめたりしなくてだいじょうぶ。
気をつけることがあるとしたら、
うまくいかないからって、
もうやーめた、って言わないこと。
少しずつできるようになっていけばいいのです。