思わないところで
「立っていると思う者は、
倒れないように気をつけなさい。」
(Ⅰコリン10:12)
ころぶ。
と言えば、赤ちゃんやお年寄り、
なんて思ってるけど、
若くても思わないところでころんじゃう、
ってこと、ないとは言えません。
ころぶのはいつでも思わないとき。
ころぼうと思ってころぶ人はだれもいないよね。
だから、びっくりしてあわてるやら、
恥ずかしいやら。
まさか自分がこんなところでころぶとは…
たかがころぶ。されどころぶ。
かすり傷がしばらく痛かった、
くらいですめばいいけれど、
ころんだ場所が悪いと大変なことになることも。
ころぶ原因て、ほんのちょっとしたこと
ってことが多いです。
ちょっとした段差に気がつかなかった、
足を上げたつもりだったけど上がってなかった…。
だれにでも見えるような段差だったら
そこでころぶ人はあまりいないよね。
ちゃんと意識するから。
“思わないところで”っていうところが
くせもの。
私たちの信仰も同じです。
だから気をつけてね、
ってみことばも言ってます。
いちばん危ないのは、
自分はだいじょうぶっていう気持ち。かな。
“立っていると思う者は“
っていうのは、そういうことだと思います。
立つのに一番大切なのは足元。
信仰で言えば、罪の救いをいただいていること。
その足元を、
もうこれで何があっても平気、って
すっかり意識からはずしてしまわないように。
自分を守るためにとても大切です。
ずっとカッコいい
「しかし、私はこれらの権利を
一つも用いませんでした。
また、私は権利を用いたくて、
このように書いているのではありません。」
(Ⅰコリント9:15)
ある幼稚園のおゆうぎ会で「桃太郎」
をやることになりました。
なんと桃太郎さんが5人、
さると犬が3人ずつ、キジは1人の桃太郎。
鬼はやりたい子がいないから、大人がやったとか。
やりたい子の中から1人を選ぶんじゃなく、
全員の希望を受け入れた、ってわけ。
やりたいことをやる権利はみんなにあるから。
というわけです。
幼稚園のおゆうぎ会だったから
主役5人でもよかったかもしれない。
でも、全部がそんなふうにはいかないよね。
いつかそのうち教えるより、
最初から教えた方がずっと簡単じゃないかなー
と思うけど、どうですか?
みんなが権利を持っているのは事実でも、
みんながそれを行使できないこともある
っていうのも事実。
権利はただふりかざすものじゃなくて、
時によっては引っ込めるものなんだよ。
と聖書は教えています。
無理やりがまんするんじゃなく、
自分で引っ込めるのです。
口先で教えるだけじゃない証拠に、
イエスさまは私たちのために
自分が持っている権利を全部
捨ててくれました。
持ってるんだけど、見せびらかさない。
押し通すんじゃなく、黙って引っ込める。
やらせろ!って大声出すより
ずっとカッコいいよね。
それができる力は
先に自分でやって見せてくれたイエスさまが
私たちの心に与えてくれるもの。
気になっちゃう
「知識は人を高ぶらせ、
愛は人を育てます。」
(Ⅰコリント8:1)
“ゲンをかつぐ”っていう言葉があります。
よい結果が出ることを願って、
前によい結果が出た時の行動をくり返すこと。
その日の朝ごはんのメニューとか、
階段をどっちの足から上るとか、
着て行く服の色とか、
特にスポーツ選手のように勝負する人たちは、
徹底的にこだわる人も多いみたい。
それをしたからって
今回も必ず勝てる保証はないわけだけど、
少しでも勝ちにつながれば
っていう気持ちなんですね。
理屈よりも気持ち、っていうことだと思います。
ここでは、偶像にささげた物かどうかが
気になる人のことが書いてあるんだけど、
やっぱり理屈だけじゃなくて、
気持ちがかかわっていることみたい。
そんなふうに気になっちゃうって言う人を、
自分は理屈で納得できて気にならないからって、
バカにしちゃだめだよ、
と今日のみことばは教えているのです。
それは知識で高ぶる、ってことだから。
気になる人からすれば、
そんなこと気にしてるからダメなんだよ、
なんていくら言われても、
それでも気になるから悩むんですもんね。
気になることはなってしまうんです。
だから、その人が気になると言ってるなら、
それをわざとやったりしない。
受け入れて、
場合によっては協力する。
それが愛で接するっていうことなんだね。
気になるポイントは人それぞれ。
だから、お互いに、ね。
もらった自分で
「それぞれ主からいただいた分に応じて、
また、それぞれ神から召されたときのままの状態で
歩むべきです。」
(Ⅰコリント7:17)
もうちょっとあれを持っていたら…
もうちょっとあれができたら…
私たちはけっこう
そんなふうに思うことがあると思います。
特に近くにいる人が
ほんとは自分にあったらよかったなー
と思うものを持っていたりすると、
ますます「うーむ…」。
なんであの人ばっかり?
神さまって不公平じゃないか、
って気がしたりして。
私たちの目は、
横にいる人たちに向きがち。
見て、比べて、
安心したり、悩んだり、うらやんだり。
心がザワザワしてしまいます。
なんでそんなふうに比べちゃうんだろう?
それはたぶん、私たちの中に
「人に認められたいなー」
っていう思いがあるから、かな。
だけど人と比べた評価は、
とても変わりやすいし、
いつ過ぎ去るかわからないもの。
どこまでいっても
ほんとにこれでいいと思えることはきっとない。
だから、自分が持っているものに応じて
歩みなさい。とみことばは言っています。
あなたが持っているものは
神さまがくれたものだから。
人ではなく神さまを見て、
神さまにもらった自分を受け入れる。
そうして、その自分のままに
歩むことができたら。
自分は自分でいい。
これ以上の安心て、ないんじゃないかな。
ありすぎて困っちゃう
「『すべてのことが私には許されている』
と言いますが、
すべてが益になるわけではありません。」
(Ⅰコリント6:12)
大好きなアニメの新作映画が公開になるとします。
今度はどんなストーリーが展開するんだろう?
ワクワクします。
ところで、
公開日の2日後がテストだったら、
どうしましょう?
次の日1日にかける?
テストが終わってから見に行く?
どうするかを決めるのは自分。
まあ結果を引き受けるのも自分だけど。
私たちは何をしても自由。
悪いこと、罪とわかっていることを
わざとやるのでなければ、
何でもやっていいのです。
だけど考えなくちゃいけないのは、
「今」自分がそれをやるのはどうなのかな?
ってこと。
やってもいいことはいくらでもあります。
ありすぎて困るくらいですね。
でも、自分の持っている時間やお金には
残念だけどかぎりがある。
自分の体力や気力にもかぎりがあります。
たとえばゲームそのものは
悪いものではないけれど、
夜中じゅうやり続けて
次の日学校では寝てるとなったら?
何をやっても自由だけれど、
今やってもいいのかな?
それをやることが自分にとっては
よくない結果になることはないのかな?
そういうことを
お祈りしながらよく考えましょう。
考えて、益になることを選び取りましょう。
と今日のみことばは教えてくれます。
今はやらない方がいいと思ったときには
やめる力も
本気でお祈りして求めれば
神さまはきっと与えてくれます。