楽勝ポイント

「最も小さなことに忠実な人は、
大きなことにも忠実であり、
最も小さなことに不忠実な人は、
大きなことにも不忠実です。」
(ルカ16:10
 
 
 
このみことばを読んで、
「あれ?」と思った人。
グッドです☆
 
 
 
これまでの聖書では、ただ
「小さいこと」ってなってたんだけど、
新しい聖書では「最も」がついたんですね〜。
 
 
 
「小さいこと」というと
あれかな、これかな、少し幅があったけど、
「最も小さいこと」となると、
小さいことの中でもいちばん小さいこと。
小ささが強調されてます。
 
 
 
忠実か、そうでないかは、
その人がいちばん小さいことを
どんな姿勢でするかにあらわれる。
 
 
 
ちっちゃいことをちゃんとやらないのに、
でっかいこと、目立つことだけちゃんとやる、
なんてありえないんだよ。
っていうことですね。
 
 
 
でも忠実のいいところは、
そうしようという気持ちがあれば、
だれでもできる。っていうところ。
 
 
 
本気で忠実になろうとしてるのに、
なれない人はいません。
だれでもできます。
 
 
 
特に私たちクリスチャンにとっては
ある意味楽勝なポイントだと思いませんか?
なぜって、いつも神さまが見てることを
知ってるんですから。
 
 
 
特別にがんばらなくても、
神さまといっしょに歩むことは
自然に忠実につながるはず。
 
 
 
忠実な人は信用できる人。
人に信用してもらえる。
これは人として、特にクリスチャンとして
とっても大切なポイントです。

全部あなたのもの

「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。
私のものは全部おまえのものだ。」
(ルカ15:31
 
 
 
ものすごくがんばって真面目に生きてるのに、
何だか自分ばかりが損をしている気がする。
なぜ自分よりずっと不真面目に生きているヤツが
ゆるされるなんてことがあるのか。
 
 
 
自分はとてもがまんしてがんばっているのに、
だれもそれを認めてほめてくれない。
 
 
 
ほうとう息子のお兄さんの心は、
こんな思いでいっぱいだったみたい。
弟ばっかりがいい思いをして、ずるい!
こんなのは不公平だ!
 
 
 
お兄さんはどうすれば満足したんでしょう。
帰ってきた弟が、
「お前なんか知らない!」
って放り出されればよかったんでしょうか。
 
 
 
もしそうだったら、
その時はうっぷんが晴れたかもしれないけれど、
きっととても悪い後味が残り続けたでしょう。
 
 
 
不公平だ、という思いは、
自分が持ってるものの方が少ない、
と思うところから生まれてきます。
 
 
 
じゃあお兄さんはほんとうに損をしていたのか。
そんなことはありません。
「私のものは全部おまえのもの」
とお父さんが言ったとおり、
実は弟よりずっとたくさん持っていたんです。
 
 
 
でもそのことがよく見えなくなっていたんですね。
 
 
 
クリスチャンになって真面目に生きてて
なんだか損をしているような気がする…。
そんな時は、神さまにもらったものの大きさを
見失っているのかも。
 
 
 
「私のものは全部あなたのもの」
実は私たちはものすごくたくさんのものを
持っているんです。
実感がわかない人は、
わかるようにしてくださいと祈りましょう。

応答したら必ず

「こうして彼は立ち上がって、
自分の父のもとへ向かった。」
(ルカ15:20
 
 
 
とっても有名なほうとう息子のたとえ話。
彼のえらいところは、
「帰らなくちゃなー」と思ったとき、
すぐ立ち上がった、
っていうところだなと思います。
 
 
 
やらなくちゃとは思っても、
何となくグズグズしちゃうこと
ありますよね。
 
 
 
それから、
神さまが助けてくれるっていうと、
自分で立たなくても、
いつの間にか立ち上がらせてくれる・・・
的なイメージを持ってることがあるような気が。
 
 
 
神さまが助けてくれたら、
自然にやる気がわいてきたり、
こわいことが全然こわくなくなったり、
あやまるのに何の勇気もいらなくなったり、
何でも楽勝でできるようになる。
・・・・・?
 
 
 
そうじゃあありませんね。
待ってたら、
神さまがいつの間にか自動的にうまくいくように
させてくれる。
それじゃ私たちは、ロボットになってしまいます。
 
 
 
じゃあ神さまの助けは
いつどんなふうに与えられるの?
 
 
 
それは、私たちが心に示されたことに対して
勇気をもって行動するとき。
 
 
 
行動は私たちの応答と言えるでしょう。
神さまの助けは、
応答するときに与えられる助け。
そして、応答するなら必ず与えられる助け。
です。

えー、もったいない!!

「宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、
招いていた人たちに、
『さあ、おいでください。
もう用意ができましたから。』と言った。
ところが、みな同じように断り始めた。」
(ルカ14:17,18
 
 
 
コンサート、映画、スポーツの試合…
ぜったい見たい!と思うときは、
“前売り券”ていう便利なものがありますね。
 
 
 
あんまり人気のコンサートだったりすると、
そもそも前売りが手に入るかがドキドキ。
時計とにらめっこしてポチッと、
なんてこともあるかもしれないけど、
そこさえクリアできれば、もう安心。
 
 
 
あとは当日を楽しみに待って、
チケットを持って出かけて行くだけ。
 
 
 
だけど、前売りはあくまで前売り。
そんなことあり得ないから、
考えてみたこともないのが普通だけど、
「当日行くかどうか」は自分しだい。
 
 
 
どんなに苦労して、お金も払って
手に入れたチケットを持ってても、
「やっぱ、やーめた」って
その日行かない、っていう選択肢も
ないわけじゃない。
…もったいなすぎるけど。
 
 
 
私たちが神さまを信じて,
もらうことができた天国行きの切符は、
ちょっとこの前売り券的なところが
あるかなーと思います。
 
 
 
ちゃんと持ち続けていくかどうかは
私たちにまかされているのです。
 
 
 
イエスさまが十字架で血を流して
買ってくれたチケット。
えー、もったいない!!
せっかくもってるのに、使わないの?!
ってことにならないように、
 
 
 
ちゃんと持ってるかな?
このたとえ話の人たちみたいに
他のことの方が大事になって、
ポイしてることになってないかな?
 
 
 
時々チェックしましょう。

もし自分だったら

「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、
安息日だからといって、
すぐに引き上げてやらない者が、
あなたがたのうちにいるでしょうか。」
(ルカ14:5
 
 
 
ちょっとしたことがきっかけで
まったく関係ない人までが寄ってたかって
ものすごいきつい言葉で悪口をあびせかける
バッシングや炎上。
 
 
 
ターゲットになった人は、
本当に生活がおびやかされて、
仕事を続けられなくなったり、
引っ越さなきゃならなくなったりすることも、
あるとか。
 
 
 
そういう話を見たり聞いたりすると、
いつも疑問に思います。
非難しているあなた、
あなたにはそれを言う資格があるの?
 
 
 
たとえば、事件を起こした犯人の親に、
「どういう育て方をしたんだ?!」
って言うあなたは、
自分の子どもをちゃんと育てられているの?
 
 
 
いじめがあった時に、
「なぜ気づけなかったんだ?!」
って非難するあなたは、
自分なら気づけて対処できたの?
 
 
 
自分だってできないかもしれない、
と思えば、そんな激しい言葉でののしることは
できないんじゃないのかな・・・。
 
 
 
イエスさまが安息日に人を癒したからって
非難する人たちは、
直してもらった人が他人で自分と関係ないから
そんなことが言えるんだ。
 
 
 
病気に苦しんでるのが自分の子どもだったら
そんなこと言えないし、言わないでしょ?
イエスさまはそう言っているのです。
 
 
 
この病気の人、そして私たちは、
イエスさまにとっては
それくらい大切な存在なんですね。
 
 
 
「もし自分だったら」っていう想像力。
それは、本当の愛の最初の一歩、
寛容へと私たちを導いてくれます。