ほんとのぜんぶ
「父よ、彼らをお赦しください。
彼らは、自分が何をしているのかが
分かっていないのです。」
(ルカ23:34)
誕生日、合格、卒業、成人式…。
お祝いをあげるよ。何がいい?
って聞かれることがあるけど、
これって答えるのが
けっこうむずかしい質問ですよね。
それを言ってくれる人との間柄が
どのくらい近くて、
どこまでおねだりしていいのか。
金額は、いくらくらいまでならいいのか。・・・
いろいろ考えてしまいます。
ほんとうはほしいものがあっても、
ちょっと買ってもらうというわけにはいかない値段
ということもあります。
何でもいいよ、と言われたとしても、
じゃあ、車。っていうわけにはいかないし。
人間の世界では、
“何でも”は必ずしもほんとうの“何でも”
じゃないことも多いのです。
イエスさまが十字架にかかって
ゆるしてくれた私たちの罪。
“すべて”っていうけど、ほんとに“すべて”なの?
ここまではいいけど、これ以上はなし、
っていうのがあるんじゃないの?
イエスさまの“すべて”が
どのくらいの“すべて”なのか。
その答えがここにあります。
自分を十字架に釘付けにした
自分を今まさに殺そうとしているその本人を
イエスさまはゆるすと言いました。
これ以上のゆるしがあるでしょうか?
だからだいじょうぶ。
私たちの心の奥底にある罪が
どんなに大きな、取り返しがつかないほど
大きい罪であっても、あやまれば、
イエスさまは必ず「いいよ」
ってゆるしてくれます。
今日はイエスさまが十字架にかかった日。
すべてをゆるしてくれる恵みを感謝して
過ごしましょう。
みんな言ってる?
「ピラトは彼らに言った。
『あの人がどんな悪いことをしたのか。』
しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。
『十字架につけろ。』」
(マルコ15:14)
「みんな持ってるから」
何か買ってほしいものをねだるときに
よく使うフレーズだと思います。
言われた親も、
うちの子だけ仲間はずれになったら困るから、
じゃあ、ってなることが多いんじゃないかな。
私たちが生活している日本という社会は、
特にこの「みんな」ということばに弱いですね。
みんなと同じということが大切。
みんなと同じじゃないのはこわい。
ところが、「みんな」はいつも正しいか
っていうと、これがそうとはかぎらない、
ってところが困りもの。
イエスさまは何も悪いことをしていない。
裁判官のピラトははっきりわかっていました。
でも、みんなが大声で十字架だ!
と叫び続けたから、その声が勝っちゃったんです。
この時の「みんなの声」は、
何も悪いことをしていない人を十字架につける。
という明らかなまちがい。
「みんな」に合わせてるうちに
悪いことにも手を貸してた、
なんてことになるかもしれない。
イエスさまの十字架は、そう教えてくれます。
みんなと同じじゃいけない
ということではないし、
わざわざみんなとちがうことをする必要はなし。
でも、みんなが言ってるけど、
ほんとにそうなのかな?
と一歩下がって考えることは大切です。
みんなとはちがうけど、
正しいことを選ぶことには、
とても勇気がいるでしょう。
でも神さまは必ずそのために必要な力を
与えてくれます。
自分を守るため
「誘惑に陥らないように、
目を覚まして祈っていなさい。
霊は燃えていても肉は弱いのです。」
(マタイ26:41)
自動車学校に行くと、
車を走らせる前の点検を教わると思います。
ボンネットの中のエンジンオイルやバッテリー液
タイヤやライトの具合…。
火災報知機や非常持ち出し袋なども、
日ごろの点検が大事なもの。
点検は、安全を守るため、
いざという時に困ったことにならないための
準備です。
放りっぱなしにしておくと
困ったことになる可能性があるから、
点検するんですね。
「目を覚まして」
というイエスさまのおことばは、
言ってみればこの点検みたいなもの。
ここでは特に、
私たちが体というものを持ってることとつなげて
言われています。
体を点検しないで放りっぱなしにしておくと、
心と信仰の調子も狂わせて、
誘惑にはまってしまう危険が大きくなる
というのです。
お祈りしたり聖書を読んだりする
時間や体力を確保するには
目を覚ましてそれなりに努力しなければできません。
何の努力もなくただやりたいに任せていたら
それは点検しないで
放りっぱなしにしているのと同じ。
点検する。目を覚ましている。
それはチェックとコントロール。
生活も信仰も同じです。
すべては自分を守るためなんだよ、
とイエスさまは言っているのです。
あなたのために祈りました
「しかし、わたしはあなたのために、
あなたの信仰がなくならないように
祈りました。
ですから、あなたは立ち直ったら、
兄弟たちを力づけてやりなさい。」
(ルカ22:32)
自分では、そのくらいのことなら
がんばればできると思ってたことが、
実はどうやってもできなかったんだとわかる。
それはがっかりする、つらい経験です。
ただでさえ悲しいのに、
「だから言ったじゃん」「ほら見なさい」…
勝ち誇ったように言われたら、
もっともっとめげてしまいますね。
打ちのめされて、立ち直れないかも。
イエスさまは、ペテロが
「死んでもついて行く」と言っても、
いざとなったらできないことをよく知っていました。
でも、「おまえはわかっちゃいない」
「今にわかるぞ」とバカにするのではなく、
祈ってくれました。
自分ができないと知っても
それで信仰をなくしてしまわないように。
立ち直ることができるように。
「立ち直ったら」ということばは、
まるで「立ち直れることはわかってるよ」
って言ってるみたいです。
イエスさまが私たちに力のなさを見せつけて、
私たちをつぶそう、やっつけよう
とすることは決してありません。
いつでも祈っていてくれます。
私たちが弱いことを十分知りながら、
それでも立ち続けていけるように、
祈っていてくれるのです。
賛美するわけ
「イエスがいよいよ
オリーブ山の下りにさしかかると、
大勢の弟子たちはみな、
自分たちが見たすべての力あるわざについて、
喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、
こう言った。『祝福あれ、
主の御名によって来られる方、王に。…』」
(ルカ19:37,38)
イエスさまがろばの子の背に乗って
エルサレムの町に入ったとき、
弟子たちも群衆も"王さま"が来てくれたと
喜びの叫び声を上げて迎えました。
なぜそんなふうに思ったのか。
それは、イエスさまがした
たくさんの奇跡を見たから。
「こんなすごい力を持ってるんだから、
王さまになってもらえば、
自分たちもきっといい思いができる。」
ワクワク・・・。
でも…。思い通りでなかったとわかったら、
そのとたん、同じ人とは思えない顔と声で
十字架につけろ!と叫びます。
私たちは、自分に良くしてくれるかどうかで
相手を判断してしまうことがよくあります。
自分がしてほしいことをしてくれるなら、いい人。
してくれないなら、悪い人。
ある時にはそれが正しいことかどうかさえ、
見えなくなってしまうことも。
自分は何を基準にして
神さまを、人を判断してるのか。
あまりに自分中心になっていないか。
時々要チェックです。