胸をはって
「ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、
光の武具を身に着けようではありませんか。
遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活
ではなく、昼らしい、
品位のある生き方をしようではありませんか。」
(ローマ13:13)
頭文字が“G”で、長いひげがあり、
台所や戸棚の中なんかに出没する
あの黒くて、てかってる昆虫。
同じ昆虫でも、カブトムシやトンボ、
ちょうちょ、カマキリ、とかなら
別にぜんぜんだいじょうぶだけど、
どうも“G”はいけません。
生きてるやつはもちろん、
死んじゃってるやつでも、
見ると何だか背中がゾクゾクします…。
やつはどうも、明るいのはきらいらしく、
夜になって暗くなると、
出てきてゴソゴソし始めます。
でも、電気をつけたとたん、
ササッと物陰に隠れますね。
まるで自分がよろしくない存在なのを
知ってるみたいです。
そこらへんは、人にも通じるものがあるなあ、
と思います。
どうもよろしくないことをしようとする時は、
人もコソコソするし、薄暗いところが好き。
だれかの気配がしたら、ササッと隠したりして。
それはだめだよ、と聖書は言っています。
“昼らしい、品位のある生き方”というのは、
明るい光に照らされてもだいじょうぶな生き方。
神さまからも人からも隠れる必要がなく、
いつだれに見られても、
胸を張っていられる生き方です。
悪に負けない
「悪に負けてはいけません。
むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
(ローマ12:21)
悪に負ける。
って、どういうことでしょうか。
悪いことをされてしまうこと?
なぐられるとか、盗まれるとか、
悪口を言われるとか、いじめられるとか…。
確かに悪いことをされたら、
傷ついたり、悩んだり、苦しんだりします。
でも、それは「負ける」というのとは
ちょっとちがうと思いませんか?
悪に負けてしまう。
それは、やられたことに対して
自分が仕返しをしてしまう、ということです。
え? でも、先にやった方が悪いんだから、
やり返してやってもいいんじゃ…?
なぐられたから、なぐり返した。そしたら?
自分も「なぐるやつ」になる、ってこと。
悪口を言われたから、自分も言ってやったら?
自分も「悪口をいうやつ」になる、ってこと。
確かに相手が先に悪かったかもしれない。
でも、自分も同じことをしてしまったら、
その悪い相手と同じ悪い自分になってしまう。
それが、悪に負ける、
ということだと思います。
そんな悪いヤツのせいで、
自分も悪いヤツになってしまったら、
こんなにつまらないことはありません。
じゃあどうやったら
悪に負けないようにできるでしょうか。
それは、がまんしてできることではありません。
「わたしが報復する」
と言っている神さまを信じることです。
神さまは私たちが自分で手を下すより
ずっときっちりと確かに、
悪には悪の報いをしてくれます。
悪いことをされても善を行うには
仕返しをするよりずっと力が必要だけど、
その力も神さまだけがくれるものです。
大切な子どもとして
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、
奴隷の霊を受けたのではなく、
子とする御霊を受けたのです。」
(ローマ8:15)
ほうとう息子、というたとえ話、
よく知っていると思います。
(思い出せない人は
ルカ15章を読んでくださいね)
自分から家を飛び出したけど、
やっぱり帰るしかないと決心した弟息子は
「子どもだなんてとても言えないから、
雇って働かせてください、って頼もう」
と考えながら家に向かいました。
でもお父さんは?
大喜びで弟息子を抱きしめ、
働かなければ価値がない雇い人(奴隷)ではなく、
もとの通りに息子として迎え入れてくれました。
いなくなっていたのが見つかったこと、
生きていたことを喜んでくれたんです。
神さまに従う、と聞くと、
奴隷のようにがんじがらめにしばられて、
何も自由なことができなくなる、
というイメージを持っている人がたくさんいます。
自分がまちがっていたと認めてしまったら、
その後は、二度と頭が上がらなくなる。
だからあやまったりしたらヤバいんじゃないか、
と思う人もいます。
相手が人間だったら、確かに
そういうことがあるかもしれませんね。
でも、神さまはちがいます。
罪を認めて立ち返る人を、だれでも
奴隷ではなく「子ども」として
迎え入れてくれるのです。
何かをしたからではなく、
生きててくれたこと、帰ってきてくれたことを
喜んでくれます。
ふつうの子どもがなんの心配もなく
自分の家で過ごすように、
安心して過ごしていいんだよ、と言ってくれます。
だから、こわがる必要はどこにもないのです。
寄り道しないで直行
「罪の報酬は死です。
しかし神の賜物は、
私たちの主キリスト・イエスにある
永遠のいのちです。」
(ローマ6:23)
イオンやららぽーとなどのモール、
家電量販店、100円ショップなんかでも、
最近はとっても広くて大きいお店が
たくさんありますね。
そこに行けば何でもそろうから、
いろいろあって楽しいし、
とっても便利。
でも、たとえば引っ越し直後に
「急いでこれがほしい!」ってなって行ったのが、
初めてのモールだったりすると、
自分のほしいものを売っているお店や
売り場がわからなくて、とっても大変。
たくさんのお店があって、
たくさんのものを売ってるのに、
自分がほしいものが見つからない。
これはかなりストレスです。
どこに行けば買えるかわかっている。
これはけっこう大事ポイント。
使わなくていい時間やエネルギーを使った上に、
ほしいものは手に入らない
なんてことにならないように。
「永遠のいのち」は「神の賜物」。
つまり、神さまだけが
私たちに与えることができるもの。
だから、なんとか神さま以外のところで
手に入れられないかと
どんなにほかのところを探しても、
絶対に見つからない。
神さまのところに行かないかぎり、
決して手にすることはできないんだよ。
と聖書は言っています。
あちこち探し回らなくても、
神さまのところに行けば必ず手に入る。
わかってるなら、寄り道しないで直行。
これですね。
うれしくはないけどね
「それだけでなく、苦難さえも喜んでいます。
それは、苦難が忍耐を生み出し、…。」
(ローマ5:3)
今コンビニやファミレスでは、
毎日たくさんの食べられる物が
賞味期限が過ぎたからというだけの理由で、
捨てられているそうです。
お店で働いている人も
絶対に持って帰ってはいけないんだとか。
ほんとにもったいないですね。
一方で、アフリカなどでは、
生れてから一度も“お腹いっぱい”を
経験したことがないという子どもが
たくさんいるそうです。
「そういう子どもたちもいるんだから、
食べ物があるのは当たり前じゃないんだよ」
と言われても、
食べられる物でも捨てる日本に生きていると、
あした食べる物が何もないっていうのがどういうことか、
リアルにはわかるのはむずかしいでしょう。
どんなにがんばって想像しても、
経験したことがないことは、頭の中の画像に過ぎません。
「忍耐」にも
同じようなところがあるんだと思います。
忍耐は大事だから、忍耐できる人になりなさい。
といくら言われても、
がまんしなければならない状態を経験したことがなければ、
忍耐も、頭の中だけのフワフワしたものに
なってしまうでしょう。
忍耐のことがリアルにわかる。
絶対に嬉しくないけど、そんなふうに、
大切なことをわからせてくれる、
と考えることができれば、
苦難を喜ぶっていうこのみことば、
いったいどういうこと?っていう疑問が、
ちょっとだけ解けるかもしれません。
そして、苦難を乗り越えさせてくれる
神さまの助けと力を知ることができたら、
それはなおいっそう私たちの心の厚みを増してくれる
深い経験になることでしょう。