”最悪”でもだいじょうぶ
「あなたがたは
心を騒がせてはなりません。
神を信じ、またわたしを信じなさい。」
(ヨハネ14:1)
「さいあく~!」
毎日の普通の会話の中でも、よく聞きます。
”最悪”は、最も悪いこと。一番悪いこと。
だからそんなにしょっちゅうあるはずないけど、
今は、「やだ~!」と
ほとんど同じ意味で使われてるみたいですね。
じゃあほんとの”最悪”って、
いったいどんなこと?
この時お弟子さんたちは
ほんものの”最悪”、
この世の中にこれより悪いことはない、
っていうことに直面しようとしていました。
イエスさまが逮捕され、
十字架につけられて死んでしまうのです。
それは、いっしょにいた人がいなくなって悲しい、
なんていうだけのことじゃなくて、
イエスさまが、明らかにおかしい奴らにやられてしまい、
自分たちが信じてきたことはなんだったのか、
わからなくなるような出来事でした。
正しいと信じてきたことがひっくり返されて、
おかしいなと思っていることがまかり通る。
そんなことがあったら、
心が騒がずにいられるわけがありません。
でもイエスさまは、そういう時でも、
神さまを信じ、イエスさまを信じなさい、
と言いました。
神さまはほんものの”最悪”が起こっても、
それをもっとすごいよいことに変える
大きい力を持っているからです。
イエスさまの死が復活につながってたみたいに。
そういう神さまがいる。
だから”最悪”の中でも
心を騒がせなくてだいじょうぶなんだよ、
とイエスさまは言っているのです。
書いてあることはそのままで
「イエスはこのことをはっきりと話された。
するとペテロは、イエスをわきにお連れして、
いさめ始めた。」
(マルコ8:32)
私たちはことばを通して
まわりの人たちとコミュニケーションするけど、
これがけっこうむずかしいと思いませんか。
自分では言ったつもりだったのに、
ぜんぜん伝わってなかったり、
自分が言おうとしたのとはそうじゃないのに!
って言いたくなる取り方をされたり。
それはたぶん、
人というものが基本、自分中心で、
他人の話には興味がなかったり、
自分に都合よく聞いてしまう、
という弱さを持っているから。
聞きたくないと思うことは、聞き流し。
音として耳には入っても
そのまま素通り、なんてことも。
私たちは注意しないと、
みことばに対しても、
同じようなことをしてしまうかもしれません。
ペテロは、十字架のことを話したイエスさまを
いさめてしまいました。
「そんなことがあるはずない。」
そしてイエスさまにしかられました。
みことばに書いてあるのに、
自分に都合よくとってしまったり、
いやだなと思うところは聞こえないふり。
そういう弱さに巻き込まれないで、
書いてあることは書いてあるとおり
受け取れるように
神さまに助けてもらいましょう。
ちゃんと書いてあるのに、
知らなかった!
ってあわてふためかないように。
またよろしく
「弟子たちは答えた。
『こんなに人里離れたところで、
どこからパンを手に入れて、
この人たちに十分食べさせることが
できるでしょう。』」
(マルコ8:4)
あれ…?
どこかで聞いたことあるような…
そうです。ほんとにちょっと前の6章に、
まったく同じような言葉が出てきます。
6章はイエスさまの一番有名と言っていい、
五千人の給食の奇跡が書いてあるところ。
イエスさまは、5つのパンと2匹の魚で、
男の人だけで5000人いた人たちのお腹を
いっぱいにしました。
みんなもこのお話はよく知っていると思います。
お弟子さんたちは
イエスさまのお手伝いをして、
みんなを座らせたり、パンや魚を配ったりしました。
ちゃんとそこにいて、見てたし、働いたんです。
そしてほら、
この前とほとんど同じシチュエーション。
ついこの前、5000人がお腹いっぱいになるのを
この目で見たんだから、
「どこからパンを手に入れて…」じゃなくて、
「イエスさま、この前みたいに
またやってくれますよね?」
って言ってもよかったと思いませんか?
私たちは、クリスチャン生活を送りながら
何か困ったことが起きると、
こんな大変な目に合ったのは初めて!
みたいにあわててしまうことが多いのでは?
でも、よく思い出してみましょう。
前にも似たようなことがなかったっけ。
その時イエスさまは、どんなふうに
助けてくれたかな。
前に助けてくれたイエスさまは、
今回もきっと同じように助けてくれるはず。
イエスさま、
またよろしくお願いします!
でいいのです。
そこまで言うなら
「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。
悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
(マルコ7:29)
人に何かを頼むとき、
何回ことわられたらあきらめますか。
大河ドラマ「西郷どん」。
まあみんなはあんまり見てないのかな?
この前は西郷さんがお殿様から
いっしょに江戸についてこい、
って言われたところでした。
それはものすごいうれしいことなんだけど、
江戸に行くには
そのころで1年分のお給料くらいの大金が必要。
西郷さんは家が貧乏だから
あきらめようとするんだけど、
家族や友だちみんなが必死にお金を集めてくれて、
ついに江戸に行けることになります。
中でも西郷さんの親友が、
お金持ちの商人の家にお金を借りに行って、
ことわられてもあきらめずに
一生懸命何度も何度もたのむ姿が、SNSでも
「すごい!」「泣けた!」と評判だったみたい。
このお母さんも、
自分の娘をなおしてほしい!という一心で、
イエスさまに何度ことわられても
一生懸命頼み続けました。
そしてついに「そこまで言うなら」
というイエスさまの言葉を引き出したのです。
「お祈りしたけど、聞いてくれない」
と思うとき、私たちはどれくらいお祈りして、
そう思っているのかな?
今は普段の生活では、一回でもことわられたら、
もうたのまない、っていうことが多いような気が。
しつこいヤツはきらわれるからね。
でも相手がイエスさまの場合は、
しつこいからきらわれる、
ってことはぜったいにありません。
本当にイエスさまに聞いてほしいなら、
「そこまで言うなら」
ってイエスさまが言うくらい、
お祈りしてみよう!
すぐそこかも
「外から入って、
人を汚すことができるものは
何もありません。
人の中から出て来るものが、
人を汚すのです。」
(マルコ7:15)
幸せの青い鳥、というお話があります。
青い鳥をつかまえれば幸せになれる
と聞いた貧しい兄妹が、
青い鳥を捜しに出かけるお話。
思い出の国へ、幸福の国へ、未来の国へ、
次々とめぐって青い鳥を探しますが
見つかりません。
やっと見つけたと思っても、
その国を出るとすぐに色が変わってしまいます。
ところががっかりしながら帰って来てみると、
青い鳥は自分たちが住んでいる小屋の
鳥かごの中にいた…というお話です。
どんなに遠くまで行ったとしても、
ないところを探している間は見つからない
ということですね。
身近なところにある幸せに気づけるように、
ということを教えてくれるお話だけど、
悪いことの原因についても、
同じようなことが言えるのかなと思います。
うまくいかないこと、
思い通りにならないことがあると、
人は、自分の外側に原因を探すことが
多いと思います。
あの人がこうだから、
これがこうだったから、環境が悪いから・・・
確かにそれも無関係ではないかも。
でも、おおもとは、
実は自分自身の心の中にあるんだよ、
とイエスさまは言っています。
どうも原因が見つからない…
そんな時は、ないところを探してる可能性あり。
外側じゃなく、
内側にも目を向けてみる。
もしかするとすぐそこにあるかもしれません。