助手席の神さま教官

「私が『主よ、私はどうしたらよいでしょうか』
と尋ねると、主は私に言われました。
(使徒22:10
 
 
 
クリスチャンの歩みは、
自動車学校で車の運転を習うのに
似ているところがあると思います。
 
 
 
運転席でハンドルを握っているのは自分。
助手席に教官のように座っているのが
神さま。
 
 
 
助手席の神さま教官に
私たちはどんな態度を取るでしょうか。
・いろいろごちゃごちゃ言わずとにかく黙って座ってて、
  ホントにヤバい時だけ補助ブレーキで
  止めてほしい。
 
 
・いいところだけほめてほしい。
  ちょっとくらいのミスは見逃して、
  とにかく合格のはんこを押してほしい。
 
 
・ほめるところはほめてほしいけど、
  だめなところはちゃんと指摘して
  直してほしい。・・・
 
 
 
神さま教官は、とにかく控えめな教官。
「次の交差点、左折ね~」
と言うのを無視して直進しても、
それでキレたり、補助ブレーキで無理やり止めたりせず、
そうなんだ、そっちに行くんだね。
って、悲しみながらも車を降りずに
黙って座っててくれます。
 
 
 
…でも、言われたとおりに運転する方が、
結局ずっとスムースに進めます。
 
 
 
なぜって教官が道をよく知ってるみたいに、
神さまは私たちの人生の道を
私たちよりずっとよく知っているから。
 
 
 
ちゃ~んと戻るべきところに戻れるように
一番適切な道選びをしてくれて、
細すぎて通り抜けられない道や危険な道は避け、
ちょっと回り道でも
スムーズに通れるところを教えてくれます。
 
 
 
「主よ、私はどうしたらよいでしょうか」
と助手席の神さま教官に聞けば
いつでもベストアンサーをくれるから、
ハンドルを握っている自分がそのとおりに運転する。
これが一番安全で確かな道なのです。

ちゃんと頼もう

「私は神に声を上げて、叫ぶ。
私が神に声を上げると、
神は聞いてくださる。」
(詩篇77:1
 
 
 
自分がやってほしいことを
「やってほしい」ってちゃんとお願いしないで、
相手に「やってあげようか」って
言わせようとする人、いますよね。
 
 
 
何か買ってほしいものがあるときに、
買ってほしい、と頼まないで、
「これ、みんな持ってるんだけど、
持ってないの、わたしだけなんだよね~」とか。
 
 
 
わからないことを
教えてください、と頼むんじゃんなく、
「わたし、初めてだから
わからなかったらどうしよう~?」とか。・・・
 
 
 
やってほしいなら、
やっぱり「お願いします」ってちゃんと頼む方が
お互い気持ちがいいんじゃないかと思います。
 
 
 
 
神さまにお願いするときも同じです。
神さまは何でもわかってるはずだから、
なぜわざわざお願いする必要があるの?
という声を聞くことがあるけれど、
それは、わかってるなら言わなくてもやって、
って言ってるのと同じ。
 
 
 
お祈りは、私が何が必要か
神さまが知らないから教えてあげるため
のものではありません。
 
 
 
自分がほんとうに必要としているものがわかり、
神さまはそれを与えてくださると信じて
はっきりとお願いすること。
これが、お祈りの大切なポイント。
 
 
 
ちゃんと上げた声を
神さまはちゃんと聞いてくださいます。

バランスを大切に

「今私は、あなたがたを
神とその恵みのみことばにゆだねます。
みことばは、あなたがたを成長させ、
聖なるものとされたすべての人々とともに、
あなたがたに御国を受けつがせることが
できるのです。」
(使徒20:32
 
 
 
この前、43歳という若さで
亡くなった人がいます。
 
 
 
そんなに若いのに、どうして
話を聞いたら、血がドロドロになって、
肺の中の血もドロドロ。
緊急で血をサラサラにする薬をたくさん使ったけど、
間に合わなかったとか。
 
 
 
そこまでドロドロになった理由が、
お肉が好きだからってお肉だけ食べて、
野菜はきらいだからって、
まったく食べなかったからなんだって。
 
 
 
なるべく好きな物を食べたいけど、
ほどほどにしないと、
ほんとに大変なことになっちゃうみたいです。
 
 
 
何事にも大切なのはバランス。
好きじゃないもの、好きじゃない人、
好きじゃないこと
それは自分にとって悪いことと思う人がいるけれど、
決してそうではありません。
 
 
 
時には好きじゃなくても
食べたり、取り組んだりすることが
自分にとってプラスになり、
結果として自分を守ることになる
ということがあるのです。
 
 
 
みことばも同じ。
いいね! とか、祝福してあげる☆とか、
好きなみことばを心にたくわえることは
もちろん大切。
 
 
 
でも、自分のまちがいや
そのままではいけないと教えてくれるところも
同じように大切です。
 
 
 
バランスのいい食事が健康な体を作るように、
みことばも全体に耳を傾けることが
健康な心と信仰を育ててくれるのです。

全員金メダル

「弟子たちの心を強め、
信仰にしっかりとどまるように勧めて、
『私たちは、神の国に入るために、
多くの苦しみを経なければならない』
と語った。」
(使徒14:22
 
 
 
オリンピックが始まりました。
たくさんのアスリートたちが、
金メダルを目ざしてがんばっています。
 
 
 
金メダルを取れるのは、1種目について1人だけ。
それを取って表彰台に上がる時の喜びは、
きっと本人でなければわからないものが
あるんだと思います。
 
 
 
何もしないでメダルを取るなんてことは
ありえません。
金メダルの陰には、
必ずものすごい努力があるはず。
 
 
 
つらく苦しい練習を積み重ねてきて、
やりたい楽しみも後回し。
食べたい好物もがまん。
 
 
 
でもメダルが取れたら、その瞬間に、
どんな苦労も全部どこかに吹き飛んで
すべては喜びに変わるでしょう。
 
 
 
 
クリスチャンにも、
神さまはやがて栄冠を準備してくれている
と書いてあります。
 
 
 
オリンピックの金メダルは1種目に1こだけ。
ものすごい苦労も報われない人が
たくさんいるわけだけれど、
クリスチャンの栄冠は、
完走した人全員が必ずもらえる栄冠です。
 
 
 
クリスチャンとして歩むとき、
いろいろつらいことや
苦しいことがあるかもしれません。
 
 
 
その苦しみは
この世が神さまを認めない罪の世だから。
 
 
 
でもそれは、
”必ず報われる苦労です。
がんばってるけど、
もしかしたらメダルに届かないかも
ということはぜったいにないのです。

「そこにもここにも」

「それでも、ご自分を証ししないで
おられたのではありません。
あなたがたに天からの雨と
実りの季節を与え、
食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、
恵みを施しておられたのです。」
(使徒14:17
 
 
 
初めて一人暮らしをするようになって
一番強く感じることは、
ご飯の時間にご飯ができてるのは
ふつうのことじゃなかった、
っていうことじゃないかと思います。
 
 
 
自分が作るか買ってくるかしなければ、
いつまで待っても
ご飯はどこからもあらわれてきません。
 
 
 
時間になったらテーブルに乗っているご飯は、
自然にわいて出てくるんじゃなくて、
それを準備してくれる人がいるから
そこにあるんですね。
 
 
 
そこにあることがあまりに普通だと、
それが当たり前のことじゃない、
ということがわからなくなってしまうことが
多いのです。
 
 
 
 
天から降ってくる雨。
季節になったらできる作物。
梅雨の季節になれば雨がふるのがふつう。
秋になったらお米がとれるのがふつう。
種をまいたら野菜やくだものができるのがふつう。
 
 
 
そう思ってしまうことが多いかもしれないけれど、
それは決していつの間にか自然に
そうなっているんじゃなく、
そうなるようにしてくれている神さまが
いるからなんだよ、
と聖書は言っています。
 
 
 
あって当たり前
ではなく、
それをそこにあるようにしてくれたお方がいる。
 
 
 
それがわかると、
世界や自分の生活の見え方も変わってきます。
ふつうに暮らしていることが
当たり前じゃないことがわかるのです。
 
 
 
ふつうの暮らしの中にも
神さまの恵みはそこにもここにも
そこら中に満ちているのです。