ひとすじ
「わたしは、あなたをエジプトの地、
奴隷の家から導き出したあなたの神、
主である。
あなたには、わたし以外に、
ほかの神があってはならない。」
(出エジプト20:2,3)
突然だけど、
”不倫”て聞いて、どう思いますか。
最近ではもう聞きなれちゃって、
ちょっと「えっ」と思うことはあっても、
「ふ~ん」とか「またか」
っていうくらいの感じなのかなと思います。
だけど、もう当たり前のことになっている。
たくさんの人が普通にやっている。
みんながいいんじゃないかと言ってる。
=だから自分もやっていい、
ということではありませんね。
”不倫”は、もしかしたらあること、じゃないし、
そういうこともあるかも、ではないし、
仕方ないこと、でもなく、
してはいけないこと。
「しません」と言わなければいけないことです。
結婚は契約。
契約は、結んだ以上守らないと、です。
気分しだいで守っても守らなくても、ってなったら、
社会がめちゃくちゃになってしまいます。
自分がやぶられる側になったら、
って考えれば、
困ることだとわかります。
私たちと神さまの関係も
実は契約。
救いをもらったということは、
神さまを私の神さまにします、
っていう契約を神さまと結んだことなのです。
だから、救いをもらった人が
神さまでないものを神さまにするのは、
言ってみれば、不倫と同じ。
救いはもらうけど、あとは好きなように、
ということは…?
それはだめでしょ、です。
「ほかの神があってはならない」
なんてわざわざ言われなくても、
神さまだけを神さまにするのは
実は当たり前のこと。
ひとすじ。大事なことです。
盛っちゃう?
「売らないでおけば、あなたのものであり、
売った後でも
あなたの自由になったではないか。」
(使徒5:4)
今年の成人式は、
予約してお金も払っていたのに
振袖が届かなかった新成人がたくさんいて、
大きなニュースになりました。
やり直しがきかないことだったから、
いっそう気の毒でしたね。
実は会社は、しばらく前から
払わなきゃいけないお金が払えない状態が
続いていたんだとか。
それを隠してうまくいっているかのように
見せかけて結局行きづまり、
かえってたくさんの人たちに迷惑をかけ、
大さわぎになってしまいました。
うまくいっていると思ってもらいたい。
いい人だと思ってもらいたい。
っていう何気ない気持ちから
ちょっとだけ「盛って」話をする。
わかったふりをする。
そういう誘惑は、
教会の中でも迫ってくることがあります。
でもそこに入っている小さいうそが、
やがて自分を苦しめ滅ぼすことに
なってしまうことも。
アナニア夫妻は「一部です」
と正直に言えば、それでよかったのです。
正直であることは
意外とむずかしいことだけど、
その一歩はまず神さまに
自分の心の本当の姿を認めて
正直に言い表すことから。
神さまに対して
ほんとに正直でいられるようになると、
人に対しても正直でいられる力が与えられます。
正直でいられることは、
実は強いこと。
だれに、いつ、どこから見られても
ばれるものがない。
安心していられるからです。
今日も一日、全部知っている神さまの前に
正直にまっすぐ歩みましょう。
海の真ん中の乾いた地面
「あなたは、あなたの杖を上げ、
あなたの手を海の上に伸ばし、
海を分けなさい。
そうすれば、イスラエルの子らは
海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。」
(出エジプト14:16)
“海の真ん中の乾いた地面”・・・?
普通に考えたら
どう考えてもあり得ない場所です。
イスラエルの人たちは前も後ろも
右も左も、どこにも行けないところに
追いつめられていました。
もうあきらめるしかないのか?
やっぱりエジプトを出るなんて、
無謀だったんじゃないか?
と思ったとき、神さまは言いました。
「前に進みなさい」
は? 前? どこ?
それが”海の真ん中の乾いた地面”
でした。
神さまにしか開けない
神さまが通らせてくれる道です。
イスラエルの人たちは、そこを通って
エジプトから完全に脱出することができました。
私たちもこれ以上もう無理、
と思うようなところに
追い込まれることがあるかもしれません。
でも覚えておいてください。
前にも進めない、後にも戻れない、
そんなところに神さまは
”海の真ん中の乾いた地面”を
作ることができる方だ、ってこと。
普通に考えたら絶対に不可能なところにも
神さまは私たちが通り抜けられる道を
準備することができるのです。
ぜんぶぜんぶ知ってるから
「さて、ファラオがこの民を去らせたとき、
神は彼らを、近道であっても、
ペリシテ人の地への道には導かれなかった。
神はこう考えられた。
『民が戦いを見て心変わりし、
エジプトに引き返すといけない。』」
(出エジプト13:17)
日本の国では、
「少しでも速いのがいいこと」、
と考える人が多いようです。
今リニア中央新幹線というのを
作ってるけど、
それができると平均速度は時速392㎞で、
東京から新大阪が67分で行ける計算なんだって。
今でものぞみなら2時間半くらいで行けるから、
それでも十分だと思うけど、
とにかく「はやく行けるんだぞ!」
って猛アピールしています。
だからか、着くのが遅くなること、
たとえば渋滞とか、遠回りとかを
いやがる人、多いですね。
人によってはイライラして、
ブチ切れたり…。
それとおんなじ調子で、
神さまが私たちを、
これは遠回りじゃないか?
と思う道に導くと、
「なんで⁈」って思うこと、
あるんじゃないでしょうか。
でも、今日のみことばを読むと、
神さまが遠回りの道を通らせようとする時には、
ちゃんとわけがあるみたい。
神さまはどの道がどんな様子か、
そこは平たんなのか、険しいのか、
緑豊かなのか、カラカラのところなのか、
どんな人たちがいるところなのか、
すべてをよく知っています。
そして、私たちがどんなときやる気を出し、
どんなことがあると
落ち込んだりやる気をなくしたりするのかも
とてもよく知っているのです。
神さまの導きは、
そういうことをぜんぶぜんぶ
わかった上でのこと。
私たちがわざとルートをはずれなければ、
導いてくれるところが
私たちにとってベスト、なのです。
これでもう大丈夫
「ある者は戦車を、ある者は馬を求める。
しかし私たちは
私たちの神、主の御名を呼び求める。」
(詩篇20:7)
これがあれば、
「これでもう私は大丈夫」って言えるもの
って、どんなもの?
体~顔とか、身長とか、体形とか~
のことは自分ではどうもできないから
置いといて、がんばれば
手に入るかもしれないもの。
たとえば、お金。
いくらあれば「これで大丈夫」?
何かの技術や資格。
いくつあれば「これで大丈夫」?
気に入ったパートナー。
その人がいれば一生「これで大丈夫」?
戦車や馬は、聖書の時代に、
国の力がどれくらいかを表わすものでした。
確かに手に入れば、
持っていなかった時よりはいいかもね。
では、戦車は何台、馬は何頭いれば
「これで大丈夫」でしょうか?
実はこの世で手に入れられるものは
いつまでたっても「これで大丈夫」
とは思わせてくれません。
一度手に入れても、
いつなくなってしまうかわからないから。
だからそういうものより
神さまを呼び求める。
とダビデは言いました。
神さまのところには
すべてのものがあります。
神さまは、私たちに必要とわかれば、
どんなものでも与えることができるお方。
何を自分で手に入れるより、
このお方を呼び求めるほうが
ずっと確かなのです。