きっと来る?
「信仰によって、ノアは
まだ見ていない事柄について
神から警告を受けたときに、
恐れかしこんで家族の救いのために
箱舟を造り…。」
(ヘブル11:7)
みなさんやみなさんのおうちでは、
何か防災の準備をしていますか?
この前ラジオで
「南海トラフ地震は必ず来るんですから、
来るものと思って
本気で備えていただく必要があります」
と言っているのを聞きました。
きっと来る、必ず来る、と言われても、
見えるところに何も起こっていないと、
そりゃいつかは来るのかもしれないけど、
今日じゃないんじゃないの…?
と思ってそのままにしてしまいやすいものです。
災害が近づいて、避難が必要です、
と言われても、
実際に行動する人は10%くらい、
という話も聞きました。
そして実際に災害が起こると
なぜもっと強く言わなかったのか、
強制的にでも避難させなかったのか、
と文句を言う人がいるそうです。
人間て、ずいぶん身勝手なものです。
聞いたことを行動に移すかどうかは、
その話をどのくらい信用するかにかかっています。
必要と聞いて、ほんとうにそうだと信じれば
それなりに準備するでしょう。
でも聞いても、へ~~え、ふ~~ん、
で終わる人は、まあそのうち、と
すぐには行動しません。
ノアは「洪水がくる」という神さまのことばを
そのまま真剣に受け止めました。
だから箱舟を造り、
家族といっしょに助かったのです。
私たちは神さまのみことばを
どのくらい真剣に受け止めているでしょうか。
大切なのは、
言われたとおりに行動しているかどうか。
神さまはちゃんと前もって
言ってくれているのですから。
ギリギリセーフ
「それを開けて、見ると、
子どもがいた。
なんと、それは男の子で、泣いていた。
彼女はその子をかわいそうに思い、言った。
『これはヘブル人の子どもです。』」
(出エジプト2:6)
「アンネの日記」という本を
知っていますか?
ナチス・ドイツから逃れるため、
隠れ家で二年間暮らしていましたが、
見つかって強制収容所に入れられ、
そこで短い生涯を閉じた
ユダヤ人の少女の日記です。
第二次世界大戦中、
ユダヤ人はユダヤ人であるというだけの理由で
ナチス・ドイツに追われ、
つかまった多くの人は命を落としました。
隠れ家での生活。
見つかってしまった時の絶望感は
いったいどんなだったでしょう。
まるで映画の中のことのようだけれど、
70年少し前には現実に起こっていたことです。
赤ちゃんモーセも
まさにそんな状況にありました。
ヘブル人の男の子は殺せ
という命令が出ている中、
モーセが乗せられたかごを見つけたのは、
何とエジプトの王女。
「もうだめだ!!」
・・・でも、モーセは殺されませんでした。
王女が「かわいそうに」思ってくれたからです。
この王女こそ、神さまの救いでした。
「もうこれで終わりだ!」
と思うようなところまで行った
その瞬間に、
神さまの助けの手が伸びてくる。
そういうことがあります。
しかもその助けの手は、
助けてくれるとはとても思えないところから
伸びてくるかもしれません。
神さまは敵と思える存在も
私たちを助けるために
使うことができるのです。
無期限でOK
「イエスは永遠に存在されるので、
変わることがない祭司職を持っておられます。
したがってイエスは、いつも生きていて、
彼らのためにとりなしをしておられるので、
ご自分によって神に近づく人々を
完全に救うことがおできになります。」
(ヘブル7:24,25)
部活の先輩。
職場の上司。
親戚のおじさん。
教会の先生。・・・
何か困ったことがあったら、
この人に相談しよう、
という存在があることは
とても貴重で心強いことです。
宝だと思って
大事にしていくといいですね。
ただ一つ覚えておいた方がいいことは、
そういう人たちもいつかは
私たちの前からいなくなる可能性がある
ということ。
先輩は卒業していくし、
上司や教会の先生は異動していくかもしれないし、
親戚のおじさんは
やがては亡くなる、ということがあるでしょう。
相手が人間の場合、
どんなにすばらしいりっぱな人でも、
やがていつかは必ずいなくなっていきます。
私たちがその人を頼りにできるのは
”期間限定”なのです。
それに比べてイエスさまは、
永遠に存在される。
つまりどこかに行ってしまったり、
死んでいなくなってしまう
ということが決してありません。
だから、無期限で信頼できます。
今は罪がゆるされているけど、
いつ無効になるかわからないという心配は
いっさいいらないのです。
いつまで寄りかかっても安心。
ありがたいですね!
今日が最高
「『今日』と言われている間、
日々互いに励まし合って、
だれも罪に惑わされて
頑なにならないようにしなさい。」
(ヘブル3:13)
「明日から」。
何か決意したり、
やらなければいけないことを
思い出したりした時に、
魅力的に響く言葉ではないでしょうか。
テストの勉強。
部屋の片づけ。
ダイエット。
体にいい運動。
なるべく早く始めるほうがいいと
じゅうぶんにわかっているけれど、
まあ、今日はいいかな。
今日はのんびりしよう・・・。
でも「明日」という言葉って
危険です。
いつまでたっても「今はしない」という
意味になってまうことがあるからです。
そうして一日一日後回しにしているうちに、
「もういいや」という気持ちに
なってしまうかも。
そうなると結局自分が困ることになってしまいます。
心や信仰の問題もそうなんだよ、
とこのみことばは言っています。
「まあ明日」「また今度」「いつか」、
と思っているうちに、
心がかたくなになってしまうことがある、
というのです。
かたくな、というのは、
受け入れるやわらかさがなくなってしまうこと。
心が神さまから遠のき、
冷たく凍えてしまいます。
示されたらなるべく早く。
つまり今日が一番いいのです。
風にも吹き飛ばされない
「その人は流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。
悪しき者は、そうではない。
まさしく 風が吹き飛ばす籾殻だ。」
(詩篇1:3,4)
秋になると田んぼで実るお米。
どうやって炊飯器で炊けるお米にするか
知っていますか?
まず稲刈り。
それから脱穀して、稲から米粒をはずします。
米粒には殻がかぶっているから
それをはずします。
殻を取り除いてできるのが、玄米。
この玄米を精米してやっと、
いつも食べている白いお米になるんですね。
”籾殻”(もみがら)というのは、
米粒からはずしたお米の殻のこと。
とても軽いので、
風を吹きつけれけばどかすことができます。
神さまの教えを喜ばない、
教えに書いてあるように生きようとしない生き方は、
試みや困難の風が吹いてくると、
どこかに飛んでいってしまう、
籾殻のように軽い生き方。
そこにあったかどうかも
わからなくなってしまう生き方。
それに比べて
神さまの教えを喜んで守る生き方は、
流れのほとりでしっかりと根を張って、
風が吹いてきてもそこに立ち続け、
やがて実を結ぶことができる生き方なんだよ、
とこのみことばは教えているのです。
風が吹いてきても飛ばされないように
根をしっかり張る。
それは私たちが自分で立って行けるために
どうしても必要なこと。
そして、私たちを守ってくれること。
その根は、
神さまの教え=みことばに耳を傾け、
従って生きることによってだけ、
張ることができるものなのです。