いつも満タン

「なんと大きいのでしょう。
あなたのいつくしみは。
あなたを恐れる者のために、
あなたはそれを蓄え、
あなたに身を避ける者のために、
人の子らの目の前で、それを備えられました。」
(詩篇31:19)
 
 
 
車で走っていると、
「給油ライト」が点灯することがあります。
 
 
 
もうすぐガソリンがなくなるよ
というサインです。
 
 
 
ライトがついたら、
たぶんあと走れるのは30キロくらい?
走ってる途中でガス欠になったりしたら大変だから、
近くなら大丈夫だけど、
遠くに行くのはやめておいた方がいいですね。
 
 
 
ガソリンの残りが少ないとわかったら、
給油するまでは、
あとどのくらい走れるか気にしなきゃなりません。
 
 
 
 
神さまが私たちを大切に思ってくれる
いつくしみが、
車のガソリンみたいに、くれたら減ってしまって
もしかしたらなくなってしまうかも、
だったらどうでしょう。
 
 
 
今月はもうたくさんもらったから
このくらいにしておいた方がいいかな、
なんて心配しなくちゃいけなかったら
困ります。
 
 
 
でも実際はそんな心配はいっさい必要なし。
神さまはいつくしみを「蓄え」ています。
 
 
 
いつでもたっぷりキープしてあるから、
どんなにもらってもだいじょうぶ。
安心です。

”失敗のはなし

「しかし、あの女奴隷の子も
わたしは一つの国民とする。
彼も、あなたの子孫なのだから。」
(創世記21:13)
 
 
 
”失敗”
あまりうれしくない言葉です。
 
 
 
なるべく関わりたくないけれど、
一生の間一度も失敗しない、
などということはまずありえません。
だれでも失敗することはあります。
 
 
 
私たちが生きているこの世の中では、
失敗は否定的にとらえられることが
ほとんどです。
 
 
 
失敗には価値を認めないし、
ある時には失敗したら、
その人自身にダメなやつ、という
レッテルを貼ることもあります。
 
 
 
それで自分そのものの価値がないように
思ってしまう人がいることは、
とても悲しいことです。
 
 
 
 
”あの女奴隷の子”はアブラハムにとって
言ってみれば失敗でした。
神さまのお約束が
実現するのを待ちきれず、
もうけてしまった子どもなのです。
 
 
 
でも神さまは
「その子も一つの国民にする」
と言ってくれました。
 
 
 
おまえの失敗なんか
どうなっても知らない、
とは言わなかったのです。
 
 
 
神さまは、私たちが失敗しても、
それで切り捨てたりしません。
その失敗にもちゃんと目を留め、
心を配ってくれるお方です。

”やる気のはなし

「彼はためらっていた。
するとその人たちは、彼の手と彼の妻の手と、
二人の娘の手をつかんだ。
これは、彼に対する主のあわれみに
よることである。」
(創世記19:16)
 
 
 
”やる気”
なかなか素直じゃなくて、
扱いづらいヤツです。
 
 
 
どんなにいいことだとわかっていても、
いっこうにやる気が起きない
ということがあるし、
よくないことだとわかってるんだけど、
やりたくてうずうずすることもあります。
 
 
 
そしてなぜか、
やらなければいけないことに限って
やる気が出にくいことが多い、
と思いませんか?
まったく苦労させられます(苦笑)
 
 
 
ところで、やる気が出なかったら
やらなくてもいいでしょうか?
いやいやながらやることは
まちがっていることだと思いますか?
 
 
 
一つわかっていることは、
やる気だけに従っていたら、
自分にとってたぶんあまりいいことにはならない
ということです。
 
 
 
ロトは、町が滅びるから
逃げるようにと教えてもらいました。
でも、なぜか逃げるのをためらったのです。
 
 
 
もし御使いたちが手をつかんで
引き出してくれなかったら、
町といっしょに滅んでしまうところでした。
 
 
 
”気が進まないのに半分無理やり”
が私たちを助けてくれることもあるのです。
 
 
 
気が進まないことがあっても
聖書を読む。お祈りする。
教会に行く。
決して意味のないことではありません。

見えるっていいよね

「しかし、あなたがたの目は
見ているから幸いです。
また、あなたがたの耳は
聞いているから幸いです。」
(マタイ13:16)
 
 
 
 
私の母は、草木のお世話が大好き。
とても大事にお世話をして、
小さなつぼみがつくと、もうワクワク。
咲く日をめちゃくちゃ楽しみに待ちます。
 
 
 
いよいよ咲いたら、
それは母にとってはビッグニュース。
父が帰ってくるのを待ちかまえて
「きれいだったでしょ?!」と聞きます。
 
 
 
ところが、父の返事はなんと、
「え、そんな花咲いてたか?
気がつかなかった。」・・・
 
 
 
きらいなわけじゃないけど、
興味や関心がないから
目に入らなかったのです。
 
 
 
興味や関心がなければ、花に限らず
確かにそこにあっても見えない、
確かに音が鳴っていても聞こえない、
ということはだれにでもあること。
 
 
 
逆に言えば、
自分はないと思っているけど、実はある、
ってことがあるかもしれない、
ということですよね。
「自分に見えない=ない」
とは限らないのです。
 
 
 
神さまがいること、働いていることを、
「そんなの見えないじゃん」
と言う人がたくさんいますが、
それも同じ。
 
 
 
心から信じて信頼する心で見れば
ちゃんと見えますが、
「見よう」という心を持っていない人には
決して見えません。
 
 
 
それが神さまがしていることだとわかる、
神さまが話していることだとわかる、
ということは、
とってもすばらしいこと。
 
 
 
そして、私たちにとって
どうしても必要なことです。
 
 
 
ちゃんと見えるように、
ちゃんと聞こえるように、
助けてくださいと祈りましょう。

またそこから

「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません。
あなたが ともにおられますから。」
(詩篇23:4)
 
 
 
新しい年を迎えてまずは7日間、
最初の1週間が過ぎたけど、
どうだったでしょうか。
主は「あなたの」羊飼いでしたか?
 
 
 
1年間と言っても、
つまりは1日ずつの積み重ねです。
主を羊飼いとする1日を
7回くり返せば1週間。
それを50回ちょっとくり返せば1年。
 
 
 
今日の心がけが1週間を作り、
1か月を作り、1年を作ります。
 
 
 
「うまくいかなかったな」
と思う日があっても、
それで「もうだめだ」と思ったり、
あきらめたりする必要はありません。
 
 
 
つまずいたりころんだりしたら、
またそこから立ち上がって
歩いていけばいい。
 
 
 
「わざわい」というような
自分にとっては
とても良いこととは思えないことに
直面することもあるかもしれません。
 
 
 
でも、主が羊飼いなら
どんなところでも、どんな時にも
恐れなくてだいじょうぶ。
 
 
 
絶対に見放さず、見捨てず、
必ずいっしょにいてくれる主が
必要な助けと力を
与えてくれます。

だれの?

「主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。」
(詩篇23:1)
 
 
 
あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします😊
 
 
 
新しい年の始まりに当たって、
みなさんもよく知っている
詩篇23篇のみことばを贈りたいと思います。
 
 
 
「主は私の羊飼い。」
特に「私の」というところに注目。
 
 
 
クリスチャンの、教会の、
お父さんお母さんの、
先生の、友だちの、ではなく、
「私の」羊飼い。
 
 
 
今日、いま、
主は「あなたの」羊飼いですか?
 
 
 
今年どんなことが待っているか、
それはだれにもわからないけれど、
主を羊飼いとしているなら、
必ず必要なものを与えてくれて、
安全な道に連れて行ってくれます。
敵からも守ってくれます。
 
 
 
今年一年、
時々じゃなく365日、
「主は『私の』羊飼いです」
と言える一年にしましょう。
 
 
 
そうするかどうかを決めるのは自分です。
まずは、
羊飼いの声をよく聴きましょう。
 
 
 
今年もがんばって
メッセージ送りますから、
みなさんもがんばって読んでくださいね(^_-)-☆
 
 
 
ですが、今週はお休み。
みなさんも今週はお休みですよね?
ぜひ「自分で」みことばを読んでみてください。