もろに味わって

「そして、その子を布にくるんで
飼葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所が
なかったからである。」
(ルカ2:7)
 
 
 
宿屋には、いる場所がなかった。
それは、今のように
ネットで調べたら空室がなかった、
ということではありません。
 
 
 
電話もなかった当時、
一軒一軒たずね歩いてお願いしたけれど、
どこに行っても断られた、
ということです。
 
 
 
ベツレヘムの町に宿屋が何軒あったのか
わかりません。
いったい何回ことわられたんでしょう。
 
 
 
お願いしてもお願いしても
ことわられたこと、ありますか?
ほんとにめげますよね。
とっても落ち込みます。
 
 
 
その上、「それでもがんばったおかげで
ようやく泊まるところが見つかりました。
よかったね」ではなかったのです。
がんばりは最後まで報われませんでした。
 
 
 
いいよと言ってくれる人は
結局だれもあらわれず、
どこにも居場所がない。
だから、
飼葉桶に寝かされることになりました。
 
 
 
イエスさまは、生れた初日から
人にとって一番つらい状況を
味わったのです。
 
 
 
それは生きている間中続き、
最終的に「のぞけ!」と叫ばれて
十字架につけられました。
 
 
 
私たちの苦しみやつらさがわかるよ、
とおっしゃるとき、
それはわかったことにしている
っていう建前や、
ただ想像でこういうことでしょ、
って言っているのではありません。
 
 
 
自分でもろにそこを経験したうえで、
言っているのです。

ちゃんとピッタリ

「ところが、彼らがそこにいる間に、
マリアは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。」
(ルカ2:7)
 
 
 
ユダヤを支配していたローマの皇帝が
住民登録の命令を出しました。
今住んでいるところではなく、
自分の出身地まで出かけて行って
登録するように。
 
 
 
この命令がなければ、
お腹が大きいマリアを連れたヨセフが
はるばる旅をすることなど
決してなかったでしょう。
 
 
 
やむを得ず旅をして
ようやくたどり着いたベツレヘム。
 
 
 
ちょうどそこにいる間に
マリアは月が満ち、
男の子を産みました。
 
 
 
なんという偶然…?
いいえ、偶然ではありません。
 
 
 
ローマの皇帝は、
救い主がベツレヘムで生まれることも、
その救い主がもうすでに
マリアのお腹に宿っていることも
ぜんぜん知らずに命令を出しました。
 
 
 
それなのにヨセフとマリアが
ベツレヘムに着くのと、
マリアの月が満ちるのと、
そのタイミングがピッタリと合ったのです。
 
 
 
なぜ今、なぜこんな所で
とその時には見えたでしょう。
でも、すべてがベストタイミングでした。
 
 
 
神さまのご計画は
ちゃんと進められていました。
 
 
 
今も進められています。

いつも気にかけて

「主はこの卑しいはしために
目を留めてくださったからです。」
(ルカ1:48)
 
 
 
人にとって一番悲しくつらいことは
きっと、
自分に目を留めてくれる人が
だれもいない、
っていうことじゃないかと思います。
 
 
 
どんなにお金があって、
ほしい「物」は全部手に入ったとしても、
自分を気にかけてくれる人がだれもいなかったら、
ほんとうにさびしいにちがいありません。
 
 
 
目を向けてもらうためだったら、
わざと悪いことをしてでも、
なんてことも聞きます。
 
 
 
それほど私たちは、
「目」が表しているだれかの「心」を
必要としているのです。
 
 
 
 
神さまは、どんな時も私たちに
目を留めてくださる方。
 
 
 
それは、私たちが何か持っていたり、
何かができたりして、
役に立つ人間かどうかということとは
まったく関係ありません。
 
 
 
マリヤは神さまが自分のような
卑しいはしため=価値がない召使いの女
にも目を留めてくださったと
神さまをさんびしました。
 
 
 
目を留める、っていうのは、
ただ見てる、
っていうだけじゃないですよね。
 
 
 
私たちでも、目が向くのは、
それが自分にとって
気になるものだから。

ことばを信じる

「主によって語られたことは
必ず実現すると信じた人は、
幸いです。」
(ルカ1:45)
 
 
 
今から70年以上前に戦争が終わったとき、
それを知らないで
フィリピンやグアムのジャングルに隠れていた
日本の兵隊さんたちがいました。
 
 
 
「もう戦争は終わった」という放送を聞いたり、
ビラを見たりしても、
敵がだまそうとしているんだと思い込んで
ぜったいに信じようとせず、
30年近くも隠れ続けていた人も!
 
 
 
今の私たちから見れば、
なぜ信じなかったのか不思議だけれど、
どんなにいい知らせでも
信じることができないことがあるんだ
ということがわかります。
とても悲しいことです。
 
 
 
 
神さまは私たちの罪をゆるすために、
クリスマスに救い主イエスさまを
送ってくれました。
 
 
 
それは、私たちの心にある罪との戦争が
終わったということです。
 
 
 
もう苦しまなくてもいいんだよ、
安心していいんだよ、
っていうとってもいい知らせです。
 
 
 
神さまはそのことを
聖書ということばをとおして、
私たちに伝えてくれています。
 
 
 
信じさえすれば、だれでも、
救いを自分のものにできるんだよ。
 
 
 
そんなこと信じられない、と言い続けるのは、
戦争が終わったということばを信じないで、
敵に見つからないようにと
ジャングルに隠れ続けるようなもの
じゃないでしょうか。
 
 
 
神さまのことばを信じる。
それが私たちの「幸い」の始まりなのです。

どっちが主?

「ご覧ください。
私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおり、
この身になりますように。」
(ルカ1:38)
 
 
 
”はしため”は、
私たちの普段の生活の中では
まったくと言っていいくらい、
使わなくなった言葉ですね。
意味は「召使いの女」。
 
 
 
召使いには
仕えているご主人がいて、
言いつけられたご主人の用事をします。
 
 
 
いい召使いは、
ご主人がしてほしいと言ったとおりにする人。
 
 
 
マリアが「私は主のはしためです」
と言ったのは、
自分にとっては神さまがご主人だから、
神さまに言われたとおりにします、
という意味でした。
 
 
 
そして、歴史の中でもたった一人、
先にも後にも同じ経験をする人がだれもいない
「救い主の母」になったのです。
 
 
 
マリアの名は2000年以上覚えられ続け、
これからも歴史が続く限り
覚えられていくでしょう。
 
 
 
聖書はいつも私たちに、
神さまを「主」としなさい、
と言っています。
 
 
 
ところが実際は、神さまを主にするどころか、
自分が神さまの主になって、
神さまを召使いのように考え、扱っている人が
たくさんいます。
 
 
 
だからうまくいかないんだよ、
と聖書は言っています。
なぜならそれは、自然の流れの向きを
無理やり変えようとしていることだからです。
 
 
 
神さまは主です。
この事実は変わりません。
神さまをほんとうに主とするなら、
必ずほんとうの祝福があるのです。