”できるやる

「神にとって不可能なことは
何もありません。」
(ルカ1:37)
 
 
 
「どんなことでもいいから、
三つだけお願いをかなえてあげる」
と言われた主人公のお話、
知っていますか。
 
 
 
さあどうしよう、と考えているうちに
うっかりいろいろ言って困ったことが起きてしまい、
結局最後はそれを解決してもらう、
というオチになっています。
 
 
 
「何でもできる」と言われても、
やってはいけないことがあるし、
できてもやらない方が正しいこともある、
っていうことを教えてくれるお話です。
 
 
 
 
神さまは何でもできますが、
それは一方的に何でもかんでも
思い通りにしてしまう、
ということではありません。
 
 
 
神さまは「できるけれどもしない」
こともあるのです。
 
 
 
何より、私たち人間の意志を無視しません。
神さまはいつでも私たちの意志を尊重します。
神さまにとって好ましくない選択をしたとしても、
それを無理やりに捨てさせたり、
従わせたりはしないのです。
 
 
 
でも、自分から離れて行った私たちを
救うために
処女がみごもる、という
自然の法則を乗り越えた力を発動して、
救い主を与えてくれました。
 
 
 
神さまが
何でもできる力をどのように使っているか、
ある時には使わないか、
それは、私たちを尊重し、何より大切に思う、
深い愛の心によっているのです。

なぜできたかっていうと

「聖霊があなたの上に臨み、
いと高き方の力があなたをおおいます。」
(ルカ1:35)
 
 
 
聖霊は力を与えてくださる、
って、よく聞きますが、
それは、どんな力なんでしょうか。
 
 
 
部活の試合に勝てる。
難関校の受験に合格する。
仕事でいい成績をあげて昇進できる。…
こんなふうに、いわゆる「成功すること」
自分がやろうとしていることがうまくいくこと、
を想像する人もいるかもしれません。
 
 
 
いや、でもそれは「力ちがい」だ、
とある人が言いました。
 
 
 
どういうことかというと、
そういうことに聖霊の力を期待するのは、
語学力のある人に
あなたは力があるから重い荷物を運んでください
と頼むようなものだ、というのです。
 
 
 
語学力も腕力も
どっちも力にはちがいないけど、
使いどころがぜんぜんちがいますね。
力にもいろいろあることがわかります。
 
 
 
では、聖霊が与えてくれる力は、
どこに使う力なんでしょうか。
 
 
 
それは、
私たちが罪に満ちた世の中で
クリスチャンとして歩んでいくために必要な力、
そして、神さまの働きをするために
必要な力です。
 
 
 
試合に勝ったり、受験に合格したり、
仕事が成功したりすることは、
人間の努力でもできることだし、
まず私たちが自分なりに
努力してがんばらなければなりません。
(もちろん神さまも助けてくださるけど)
 
 
 
でも、クリスチャンとして歩み、働くことは、
私たちががんばったらどうにかなることではなく、
神さまの力、聖霊の力なしでは
できないことなのです。
 
 
 
マリヤが救い主のお母さんになったのも、
マリヤががんばったから、ではなく、
聖霊の力におおわれたから。
 
 
 
おおってくださる力にゆだねるなら、
私たちにも
すばらしい力を与えてくださるのです。

こわがらなくてもだいじょうぶ

「こわがることはない。マリヤ。
あなたは神から
恵みを受けたのです。」
(ルカ1:30)
 
 
 
しばらく前に、
俳優さんとマネージャーさんが出てくる
こんなやり取りのCMがありました。
(なんのCMだったかは忘れてしまいましたけど…)
 
 
 
かけ込んでくるマネージャー:
「喜んでください、
すばらしいオファーです!
次の役が決まりました!」
俳優:「そうかよかった、で、何の役?」
マネージャー:(のり出しながら)
「大統領ですよぉ」
俳優:「・・・」(顔が青くなってかたまる)
 
 
 
主役もやったことがなく、
特に注目されたこともないのに、
いきなりの大統領。
 
 
 
青くなった俳優さんの頭の中には、
「これは、なんちゃってじゃないのか?
もしほんとなら、ほんとに自分で大丈夫なのか?
やめとけばよかった、ってことにならないのか?」
などなど、かけめぐっていたんでしょう。
 
 
 
こういうときの気持ちって、
うれしい、というよりは
「こわい」だと思います。
 
 
 
救い主の母になる、というのも
きっとそういうことでした。
 
 
 
神さまに何かをしなさい、
と言われたとき、
私たちの心には「喜び」より「恐れ」が
支配することがあります。
 
 
 
自分にできるのか?
なぜ自分なんだろう?
うまくいかないんじゃないか…。
 
 
 
でもみ使いは
「こわがることはない」と言いました。
そう、こわがらなくてだいじょうぶなのです。
 
 
 
なぜって、
神さまが言われることはすべて
「恵み」だから。
 
 
 
その通りにすることは、
たとえ困難がともなうことであっても、
必ず私たちの本当の祝福に
つながることだからです。
 

いっしょにいる

「その名はインマヌエルと呼ばれる。
それは、訳すと
『神が私たちとともにおられる』
という意味である。」
(マタイ1:23)
 
 
 
ほんとうにものすごく大変な目に
あっている人を目の前にすると、
私たちはかける言葉を失ってしまいます。
 
 
 
もちろん、何か言ってあげたい、
なにか励ましになることはないか、
なにか力になることはないか、
必死に考えます。
 
 
 
でも、「わかるよ」とか「だいじょうぶだよ」とか
軽々しく口にすることはとてもできない状況で
なにを言ってもむなしく響きそうなとき、
私たちは立ちつくしてしまい、
自分の無力を思い知らされるのです。
 
 
 
ところが、
実際に大変な目にあった人たちが、
「何か言ってくれなくてもいい。
ただ、来てそばにいてくれる、
そのことがほんとうに支えになった」
と言っているのを何回か聞きました。
 
 
 
何も言えなくても、
立ち上がってそこに行き、いっしょにいる。
人にとってはそれが、
大きな慰め、励ましになるのです。
 
 
 
 
イエスさまは、
「私たちとともに」いようとして
来てくださいました。
 
 
 
かがやかしい天の場所から
立ち上がって、
暗く冷たい地上に
ほんとうに来てくれたのです。
 
 
 
そして今日も、
イエスさまは私たちのすぐとなりに
いっしょにいてくださるのです。

どうでもよければ心も騒がない

「あなたがたは
心を騒がせてはなりません。」
(ヨハネ14:1)
 
 
 
この前ニュースで
”加熱式たばこ”の税金が上がる
と言っていました。
 
 
 
それがなんだ?と思いますよね。
たばこを吸わない私たちにとって、
たばこの税金が上がろうと下がろうと、
ぜんぜん気になりません。
自分には関係ないからです。
 
 
 
イエスさまが弟子たちに
心を騒がせないで、と言ったのは、
この後十字架にかかる自分を見て、
弟子たちの心が
とっても動揺するとわかっていたからでした。
 
 
 
それまで神の御子と信じて
ついてきたイエスさまが
十字架にかかってしまう。
 
 
 
それは、弟子たちにとっては
よりどころがなくなってしまって、
グラグラすることにちがいなかったのです。
 
 
 
実際動揺して逃げ出してしまう弟子たちは、
一見弱々しく、ふがいないように見えますが、
逆に見れば、
それだけ真剣にイエスさまを頼りにしていた、
ということなんだ、
とある本に書いてあって、
なるほど、と思いました。
 
 
 
イエスさまが自分と無関係な存在なら、
イエスさまがどうなろうと、
それで心が騒ぐこともない
っていうことですね。
 
 
 
イエスさまがどうなるか
そのことは自分の心を騒がせる一大事?
それとも、べつにどっちでもいいこと?
 
 
 
そのことをまず今日は
自分に問いかけてみてください。
 
 
 
そしてもちろん、
そのことが一大事な人、
つまり、イエスさまがどうにかなったら
ほんとうに困ってしまう、という人に、
イエスさまは言っておられます。
 
 
 
「もうだめなんじゃないか、
これで終わりなんじゃないか、
と見えるようなところを通っても、
その先が必ずあるから
ぜったいにだいじょうぶなんだよ。
わたしを信じていなさい。」