神さまの栄光

「信じるなら神の栄光を見る、
とあなたに言ったではありませんか。」
(ヨハネ11:40)
 
 
 
神さまの栄光が現わされる。
教会でよく聞くことばだと思うけど、
具体的にはどういうことなんでしょうか。
 
 
 
大災害が起こったり、
とんでもない残酷な事件が起たりすると、
「神も仏もいない」
と言っている人がいるのをよく聞きます。
 
 
 
神さまがいるなら、
自分を困ること、悲しいこと、苦しいことに
あわないようにようにするべき。
自分がいつも幸せで楽しく暮らせるように
守るべき。
 
 
 
「べき」と言われるのをとてもきらう人間だけど、
神さまに対しては「べき」を連発。
上から目線をとてもきらう人間だけど、
神さまに対しては、がっつり上から目線。
 
 
 
そして、よくないことが起こると、
「なにやってるんだよ!」と
まるで神さまのせいかのように怒る。
 
 
 
要するに「自分が無事で
自分がうまくいくことが神さまの役目で、
それで栄光が現れるんだ」
そう思っているとしか見えないように
ふるまっている人がとても多いような気がします。
 
 
 
 
神さまは決して私たちを
わざと困らせたり、
苦しませたり、悲しませたりしようとは
思っていません。
 
 
 
でも、私たちが神さまを忘れたり、
いい気になって人を見下したりするのは
とても困ること。
 
 
 
「信じるなら」というのは、
神さまというお方と神さまがしていること、
神さまがしようとしていることを
認めてそこにあてはまるということです。
 
 
 
その心をしっかり持っているなら神さまは
「これは確かに人じゃなくて神さまがしたことだね」
と自分もみんなも納得できることを
してくださいます。
 
 
 
神さまの栄光は
そこに現わされるのです。

ゲートを通って

「わたしは門です。
だれでも、わたしを通って入るなら
救われます。」
(ヨハネ10:9)
 
 
 
テーマパーク、好きですか?
 
 
中は夢の国。
楽しいアトラクション。
行き届いたサービス。
季節ごとに変わるパレード。
見て回るだけでも楽しいショップ。・・・
 
 
 
でも、どんなに楽しいと知っていても、
とにかくまず入場しないことには
何も始まりませんね。
 
 
 
何はともあれ
まずはゲートを通って中に入ること。
そうすれば、
あとは思う存分楽しむことができます。
 
 
 
 
神さまの国のすばらしさも
入った人だけが経験できるもの。
そして、やっぱりゲートがあります。
それがイエスさま。
 
 
 
イエスさまという門を通らなければ
神さまの国に入ることは
決してできません。
 
 
 
テーマパークに入るためには
お金が必要だけど、
この門で払う入場料は何でしょうか?
 
 
 
それは
「イエスさまを
自分の救い主と信じる」
信仰です。
 
 
 
それさえあれば、
だれでもこの門を通過することができます。
お金はもちろん、
これを持っていないと、とか
これができないと、みたいな条件は
いっさいなし。
 
 
 
そして、中に準備されているいのちと恵みを
思う存分楽しむことができるのです。

熟せば自然に

「わたしの時はまだ来ていません。」
(ヨハネ7:6)
 
 
 
完熟マンゴー、食べたことありますか?
りっぱな箱に入って
ふわふわのペーパーパッキンの
クッションに乗せられている
完熟マンゴー。
 
 
 
お店で見ると、
びっくりするようなお値段がついているけど、
それなりの特別なおいしさらしいです。
 
 
 
何かの番組でやっていましたが、
完熟マンゴーは、
そろそろいいかなと、もぎ取るのではなく、
ネットをかけておいて、
自然に落ちるのを待つんだそうです。
 
 
 
ほんとうに熟したら自然に落ちる。
そのタイミングを待つ。
これが秘訣なんだと
生産者の人が言ってました。
 
 
 
ベストタイミングを待つ。
これが、とっても大切なことなんですね。
 
 
 
 
イエスさまは、
ほんとに救い主ならもっとどんどん前に出れば、
と兄弟たちに言われましたが、
「わたしの時」つまり、
神さまが決められた神さまのタイミングを
待っておられました。
 
 
 
決して自分からあわてて何かをしようとは
しませんでした。
 
 
 
私たちの生きていく道にも、
神さまが決められた一番いいタイミングが
あります。
 
 
 
私たちは待つことが苦手で、
少しでも早く、少しでも前に、と思いがちですが、
神さまの時を待つことができるように、
また、その時をのがさないで
つかまえることができるように、
お祈りしましょう。
 
 
 
待つことを覚えれば、
少しずつでも、
心のゆとりを持つことができるようになります。

イエスさまを食べる

「わたしがいのちのパンです。
わたしのもとに来る者は
決して飢えることがなく、
わたしを信じる者はどんなときにも、
決して渇くことがありません。」
(ヨハネ6:35)
 
 
 
アンパンマンは、
自分の頭を食べさせて、
元気がない子に元気をあげるけど、
その代わりに、自分は力がなくなってしまいます。
 
 
 
(ジャムおじさんが新しい頭を届けてくれるから、
すぐ元気百倍!になるんだけどね#^^#)
 
 
 
この「自分を食べさせる」というところは、
イエスさまがモデルになっている、
と言われています。
 
 
 
作者のやなせさんは、
クリスチャンだったからです。
 
 
 
いのちのパンであるイエスさまを食べる
というのは、
イエスさまが何も言わずに十字架にかけられて、
私たちがいのちを持つために
イエスさまのいのちを与えてくださったことを
自分のためと受け取ること。
 
 
 
ただ何となく「イエスさまっているよね」
「見守ってくれてるよね」
「困った時は助けてくれるよね」
と思うことではありません。
 
 
 
イエスさまが自分のために
いのちを与えてくださったことを
今信じているかどうか。
私たちはいつもそのことを心にかけて
確かめましょう。
 
 
 
「イエスさまを食べた」ことが
自分の中で確かになるにつれて、
決して飢えない、決して渇かない
っていう、
そこまで言っちゃっていいの?
というみことばもリアルになってくるのです。

イエスさまは幽霊?

「わたしだ。恐れることはない。」
(ヨハネ6:20)
 
 
 
弟子たちは、イエスさまが五千人を
お腹いっぱいにする、という最高の奇跡を
ついさっき目撃したばっかりでした。
 
 
 
でも、舟に乗って渡ろうとした湖が
強風で荒れ始めると
こわくてどうしようもなくなってしまいました。
 
 
 
「イエスさまが助けてくれる」
ということを思い出さなかったし、
「イエスさま助けて!」と
叫ぶことも忘れました。
 
 
 
それどころか
近づいてくるイエスさまを幽霊かと思って
おびえてしまいました。
 
 
 
 
「神さまってほんとにすばらしい!」
と心から思う体験をしたら、
あとは何が起こっても
信仰がゆらぐことはない。
…だったら、どんなにいいでしょう。
 
 
 
でも実際は、そうではなくて、
すばらしい経験をした直後でも、
風が吹いて嵐が起こると、
とたんに神さまがほんとに助けてくれるかどうか
よくわからなくなってしまう、
それが私たちだと思います。
 
 
 
イエスさまがそこにいても、
実体のない、当てにならない
幽霊のように感じてしまうのです。
 
 
 
 
でも、私たちが感じ取れるかどうかは
別として、
イエスさまはいつでも必ずそこにいる、
それだけは忘れないでください。
イエスさまは絶対に
私たちを置き去りにしません。
 
 
 
「だいじょうぶなんだよ」
と言いながら、
私たちがイエスさまだとわかるのを、
待っていてくださるのです。