素直に丸のみ

「私たちもまた、絶えず神に感謝しています。
あなたがたが、
私たちから聞いた神のことばを受けたとき、
それを人間のことばとしてではなく、
事実そのとおり
神のことばとして受け入れたからです。」
(Ⅰテサロニケ2:13)
 
 
 
最近台風などで豪雨被害が出ることが
よくあります。
雨がひどくなってくると「避難勧告」が出るけれど、
それを聞いて本当に非難する人は、
とても少ないんだそうです。
 
 
 
勧告が出ても、
それほど大変なこととは思わない、
つまりあんまり信用していない、
ということでしょう。
 
 
 
せっかく勧告が出ていたのに、
聞かなかったせいで被害にあったとしたら、
とても残念です。
 
 
 
 
聖書のみことばは、
人が書いた人のことばではなく、
神さまが自分に語っている
神さまのことば。
 
 
 
だから、書いてあることは
必ずそのとおりになります。
勧告みたいに、
実際はそれほどじゃなかった
ということはありません。
 
 
 
でもそれをどのくらい信用するかは
私たちにまかされています。
 
 
 
信用して
書いてあるとおりに行動すること。
それを「信仰」と言います。
 
 
 
そこにあることばをどう受け取るか、
どのくらい真剣に受け止めるかが、
私たち自身の将来を決めるのです。
 
 
 
大変なことから
救われるだけじゃありません。
恵みと祝福も
書いてあるとおりにもらえます。
 
 
 
すべてをそのまま素直に信じて
丸のみにする子どものように、
神さまが言っているんだからと受け取る。
それが救いと祝福への扉です。

肩透かしなし

「私たちは、救いをもたらさない国に
期待をかけ、
見張り場で見張りをしたのだ。」
(哀歌4:17)
 
 
 
「すだれ」って知ってますか?
日差しをよけるために
窓の外なんかに下げるあれです。
 
 
 
もうだいぶ昔のことだけど、
今で言う「帰国子女」が
日本に帰ってきた時の本当の話。
 
 
 
窓に下げてあったすだれ。
初めて見たから、
ペラペラで下げてあるだけとは知りません。
壁だと思いこんでマジで寄っかかり、
庭に転げ落ちてしまったんだそうです。
 
 
 
知っていれば、
受けとめきれないってわかっているから、
寄りかかるなんて絶対にしないけど、
知らないって、こわいです。
 
 
 
 
私たちが神さま以外のものを
頼りにするのは、
実はすだれに寄りかかるようなものなんだよ、
と聖書は言っています。
 
 
 
いつなくなってしまうかわからない、
いつ変わってしまうかわからない、
そういうものを頼りにしていたら、
いつ自分もまるごと転げ落ちてしまうか
わかりません。
 
 
 
だからと言って、
急になくなってもいいように、
このくらいなら大丈夫かな?
と寄りかかり具合を加減するようでは、
頼りがいがありませんね。
 
 
 
決して変わることがなく、
永遠まで頼りになるのは神さまだけ。
どれだけ本気で寄りかかっても
だいじょうぶ。
肩透かしは絶対なしです。

からっぽはチャンス

「外に出て行って、
隣の人みなから、器を借りて来なさい。
からの器を。
…そのすべての器に油をつぎなさい。」
(Ⅱ列王4:3,4)
 
 
 
私はいろんなもののストックを
持っておくほうだけど、
みなさんはどうですか?
 
 
 
ストックがあれば、
今使ってるものがいつなくなっても
だいじょうぶだから、安心です。
 
 
 
ストックなんかなくたって、
なくなった時に買いに行けばいい、
という意見もあるけれど、
それってある程度お金がある人の意見かなー
と思います。
 
 
 
なくなってから買いに行ったら、
高いのに買わなくちゃならないことに
なるかもしれないから。
 
 
 
からっぽは、
なんとなく不安だし、心細いです。
 
 
 
見えるものだけじゃありません。
私たちは自分の本当の心に向きあうと、
自分て中身がなくてからっぽなんだなー
ってわかってくることがあります。
 
 
 
そんな時はがっかりして
心細くなるかもしれません。
 
 
 
でも、自分の中身がからっぽだ
とわかった時は、
実はチャンスなんです!
神さまにいっぱいにしてもらうチャンスです。
 
 
 
そして、からっぽだからこそ、
神さまにいっぱいにしてもらえるのです。
 
 
 
神さまにもらおうとしてるのに、
私の器に先に何かが入ってたら、
もらえる分が少なくなってしまいます。
 
 
 
「この通り、からっぽなので、
いっぱいにしてください」
って神さまにお願いしましょう。
神さまはちゃんと必要なものを
満たしてくれます。

わかってるけどやめられない

「しかし彼は、イスラエルに罪を犯させた
ネバテの子ヤロブアムの罪に執着し、
それから離れることがなかった。」
(Ⅱ列王3:3)
 
 
 
小さいときにイエスさまを信じると、
かわいかった自分が
おわびする罪もかわいくて、
たぶん世の中では
「そのくらいだれでもするでしょ」、
って思われてるようなことばかりでしょう。
 
 
 
罪のこわさを知らないうちに
神さまを信じた。
それはほんとうにすばらしくて感謝なこと、
 
 
 
でもその後成長していく中で、
あれ?と感じて
よくわからない気がしてくることが
あるかもしれません。
 
 
 
大人がきたなく見えてきて、
嫌悪感を感じたり、
裏切られたような気持ちがしたり、
 
 
 
そんなのおかしい、いやだ、
自分は絶対そうはならないと思っているのに、
そのうちに自分の心の中にも
同じものがあることに気づいて、
ショックを受けたり。
 
 
 
罪は、実は人の心の奥深く深く
巣食って根を張っています。
罪に執着して離れないなんて
だめでしょ、とか、
その気になればいつでもやめられる
って簡単に言えている間は
そのこわさをまだ知らないと言ってもいいくらい。
 
 
 
わかっているけどやめられない、
やめたくない。
ってこと、経験したことありませんか?
その力が強くてとても逆らえない
と感じたことはありませんか?
 
 
 
そんな時には、
仕方ない、大したことない、みんなもやっている
と思ったり、
あの時信じたんだからもういい、
と思ったりしないで、
神さまに助けをお願いしましょう。
 
 
 
イエスさまはそれをなんとかするために
来てくれたんです。
そのために
十字架にかかってくれたのです。

めげずに

「もしも、あなたがたが
何か違う考え方をしているなら、
そのことも神があなたがたに
明らかにしてくださいます。」
(ピリピ3:15)
 
 
 
自分がマラソンを応援しに行った
と考えてみてください。
(マラソンてほとんど日曜日だから、
実際に行けることは
まずないわけだけど(;´・ω・)…)
 
 
 
集団から離れて
ひとりで走ってきたランナーがいて、
コースとちがう方へ走っていこうとしたら、
どうするでしょうか。
 
 
 
「いいんじゃないの、
行きたいんだから」
って、そのまま放っておきますか。
 
 
 
それとも、
「そっちはちがうよ、こっち、こっち!」
って教えてあげますか。
 
 
 
行きたいんだからいいんじゃない?
とそのまま見送るのは親切のようだけれど、
実はとても不親切で冷たい仕打ちです。
だって、それはその人がゴールできない、
ということを意味しているからです。
 
 
 
 
神さまが私たちに
「そっちはちがうよ」と言われるのは、
そういうことなのです。
 
 
 
私たちの人生のコースは一度きり。
今回はゴールできなくて残念だったけど、
次回はがんばろう、
ってやり直せればいいけれど、
一回走り走り終わってしまったら、
二度目はありません。
 
 
 
だから、ちゃんとゴールに向かうコースに
乗っているかどうかは、
どうしてもチェックしなくちゃならない
重要ポイントなんです。
 
 
 
「うるさいな、ほっとけよ」って思って、
ひどい態度をとってしまうこともある私たちに
めげずに「ちがうよ」
って言ってくれるのは、
私たちのことを心から大切に思ってくれているから。
 
 
 
ほんとにありがたいことなんです。