大丈夫じゃないことがわかる

「われわれは、
自分のしたことの報いを受けているのだから
あたりまえだ。
だがこの方は、
悪いことは何もしなかったのだ。」
(ルカ23:41)
 
 
 
イエスさまが十字架にかかったことを
「ふ~ん、そうなんだ、たいへんだったね。
だまって十字架にかかるなんてすごいね。」
って、どこかの偉人がした偉業のように
思っていること、ありませんか?
 
 
 
そこまで自分を犠牲にできるなんて、
イエスさまってホントにすごいよ。
さすがだね。
おまけに、信じた人を助けてくれるんだって。
パチパチパチ…
 
 
 
そんなふうに他人事のように思うとき私たちは、
ほんとうはそこにかかるのは
自分のはずなんだ、
ということを忘れています。
 
 
 
「われわれは、
自分のしたことの報いを受けているのだから
あたりまえだ」と言った強盗は
ほんとに悪いヤツだけど、
自分はそんな強盗とはちがうから?
 
 
 
イエスさまの十字架がなくても
自分はほんとは何とかなると思う。
神さまだって
自分がそれほど悪くないって
わかってくれるはず…?
 
 
 
そうではありません。
 
 
 
この強盗の言葉は、
実はすべての人が言わなければならない言葉。
それなのに、
悪いことを何もしていないイエスさまが
代わりに罰を受けてくれたんです。
 
 
 
信じたい人だけが信じればいいんでしょ?
ではありません。
 
 
 
イエスさまの十字架がなかったら
自分はぜんぜん大丈夫じゃない。
そのことがほんとうにわかりますように。

「必ず乗り越えさせてくれる」

「ヨナタンはダビデに言った。
『あなたの言われることは、
何でもあなたのためにします。』」
(サムエル㈵20:4)
 
そんなつもりじゃなかったのに
まわり中が敵になってしまって
もうダメか、と思うようなとき、
思いもしない人が味方してくれると
とてもホッとして、
それだけでも救われたような気持ちになります。
 
ダビデにとってヨナタンは、
まさにそんな存在でした。
 
ヨナタンがダビデの味方をするということは、
自分が王子なのに次の王になれない、
ということを意味していました。
それなのに、ダビデを救うために
「なんでもする」
と言ってくれたのです。
 
サウル王に命をねらわれ続けている
ダビデにとって、
どんなに慰めと励ましだったことか。
 
ダビデにとってヨナタンは
まさしく「神さまの脱出の道、
神さまの奇跡」でした。
 
 
神さまの道を真実に歩んでいる人に、
神さまは必ず「脱出の道」
を準備してくださいます。
 
それは「神さまが」準備してくださる
「神さまの」脱出の道。
 
それは、私たちがこうしたら、ああしたら
と頭をひねって手を尽くしても
とても思い浮かばないようなところに
あることもあるのです。
 
神さまは必ず乗り越えさせてくださる方。
今、どんなにふさがっているように
見えたとしても必ず、です。

てっぺんの代価で

「恐れるな。
わたしがあなたを贖ったからだ。
…あなたは、わたしのもの。」
(イザヤ43:1)
 
だれかからただでもらったものと、
自分のお金で買ったもの。
どっちが大事でしょう。
 
もらったものも、
もちろんうれしくてありがたいけれど、
やっぱり自分でお金を払ったものは、
大事にしようとする気持ちが大きいですね。
 
お金がたまるまでの苦労が
大きければ大きいほど、
その気持ちは強くなるでしょう。
 
そのお金がもらったお金じゃなく、
自分で働いて得たお金なら、
なおさらです。
 
お金を払うということは、
自分がそれにふさわしいと思う代価を払う、
ということ。
それを払っても手に入れる価値がある、
と思っている、ということです。
 
私たちを神さまのものにするために、
神さまはとんでもない代価を
払いました。
 
ひとり子イエスさまのいのちです。
だれかがさし出すことができるものの中で、
これ以上のものはありません。
 
これより上はなし、というてっぺんの代価。
それを払ってでも神さまは、
私たちを悪魔の手から救いたい、
死んで滅んでしまわないようにしたい、
と思ったのです。
 
それだけの代価を払って
「贖った」私たちのことが、
神さまにとってはどんなに大切で、
どんなに「失いたくない」ものか。
 
この後に続く有名なみことば、
「わたしの目には、
あなたは高価で尊い。」
というのは、
そういうことなのです。

武器はなくても

「ここに集まっているすべての者も、
剣や槍がなくても、
主が救いをもたらすことを知るだろう。
この戦いは主の戦いだ。」
(サムエル㈵17:47)
 
神さまの勝利を与えられる
って、実際にどうなることなのか、
考えたことありますか?
 
試合に勝つ。
受験に合格する。
仕事がうまくいく。
教会に人が一杯集まって
もりあがる。…
 
何となく、この世で言う「成功」
のイメージを持ってしまうことが
多いかも、と思います。
 
だから、勝利を得るためには
この世が認めるパワーを
手に入れなければ、
もっとがんばらなければ、と。
 
お祈りも、それを求めるお祈りに
なっているかもしれませんね。
 
ダビデはだれも戦えなかったゴリヤテと戦い、
大勝利を収めましたが、
それは武器、
つまり、この世が「戦う道具」と思っているもの
を使って得た勝利ではありませんでした。
 
神さまがくださる神さまの勝利は
この世の武器がなければ得られない勝利
ではありません。
 
自分は「自分にはこれがある」、
というものを何も持っていなから、
勝利なんか得られない…
んじゃあないんです。
 
心から信頼する人を通して
あらわされる神さまの力。
それが、神さまの勝利。
 
神さまを心から信頼し続ける。
その力は、どんな「武器」も届かない
力を発揮するのです。
 

いつも100%パワー

「主は永遠の神、
地の果てまで創造した方。
疲れることなく、弱ることなく、
その英知は測り知れない。」
(イザヤ40:28)
 
疲れって、
人から余裕を奪います。
体の余裕はもちろんだけど、
気持ちの余裕も。
 
いつもなら「そうだよね~」
って笑ってやり過ごせることも
なんだよ、ってムッとしたり、
いつもなら「いいよ~」ってできることも
ものすごい負担に感じて
イラっときてしまったり。
 
人に何か頼むなら、
その人が疲れている時はやめておく
っていうのは、
引き受けてもらうための
ポイントの一つかも。
 
「今日はだいじょうぶそうかな?」
って見計らっていると、
今度はこっちが気疲れしちゃったりして、
いろいろたいへんです。
 
でも相手が神さまなら、
そういう心配はいっさいいりません。
 
「助けてあげたいんだけど、
今日は疲れててムリなんだよ」
っていうことは絶対ないし、
疲れててご機嫌ななめ、
なんてこともいっさいなし。
 
「今日はだいじょうぶそうかな?」
と様子をうかがう必要は
いっさいないんです。
 
いつでも、なんでも
心配なく安心してお願いしてオッケー。
だって神さまは疲れない方だから。
いつでも100%のパワーで
助けてくれます。