どんな笑い?

「サラは心の中で笑って、こう言った。
『年老いてしまったこの私に、
何の楽しみがあるでしょう。』」
(創世記18:12
 
 
 
ふふん・・・
な〜にいいこと言っちゃってんの
そんなことあるわけないでしょ
 
 
 
サラの気持ちを今風に言ったら
きっとそんな感じ。
 
 
 
ずっと長い間
子どもがほしいって思ってたけど、
こんな年になっちゃったし、
生まれないはもう確定。
この状況を受け入れるしかないんだな…
 
 
 
そう思ってたのに、
突然「来年生まれるよ」っていう知らせ。
それを聞いてサラは笑った。
しかも心の中で。それつまりサラの本音。
 
 
 
うれしい知らせを喜ぶんじゃなく、
バカげていると思う。
神さまのことばよりも
見えている状況で判断すれば、そうなる。
 
 
 
「神さまを信じていたら祝福される」
って聞いたとき、私たちの心の中では
どんな笑いが起きるだろう。
 
 
 
えーうれしい、
って心から喜んでる笑い?
ほんとにそうだったらいいけど…
っていう弱々しくうすい微笑?
それとも、ふふん…
って唇の端がちょっと上がる苦笑?
 
 
 
どんな笑いかは
神さまのことばを
どのくらい信じているかを表わす。
 
 
 
せっかくのうれしい知らせを
苦々しく受け取るんじゃなく
心から喜べる信仰を持ちたいね。

逃げ出さなくても

「主の使いは彼女に言った。
『あなたの女主人のもとに帰りなさい。
わたしはあなたの子孫を
増し加える。』」
(創世記16:9,10



女主人のサライにいじめられ、
逃げ出そうとした奴隷のハガル。
もうむり。耐えきれない。
と思ったんですね。



いじめはハガルの思い込みとかじゃなく、
「サライが彼女を苦しめた」
って書いてあるから、
正真正銘の事実だったみたい。



そもそもいじめるってどうなのよ?
っていう話だけど、
それはここでは置いといて、
だったら逃げて当然。
ふつうはそう思います。



でも神さまの使いはなぜか
「帰りなさい。」と言いました。
さらに、
「そこで子孫を増やしてあげる。」と。



つらいこと、苦しいことからは
逃げ出したい。
だれでもそう思うもの。
確かに逃げることが解決になる
ということもあります。



でも逃げられないことに直面することは、
神さまが見放したり見捨てたり
解決を拒否してる
ということでは決してない。



女主人がいじめるというつらい現実。
その中にとどまり続けていても
祝福してあげる
と神さまは言いました。



いやなこと、つらいことから
逃げきれないこともある。
でもその中にいる人も
神さまは祝福することができるのです。

立ち上がる勇気

「すると、彼は立ち上がって
イエスに従った。」
(マタイ9:9
 
 
 
ちょっと時間があいた。
そういえば
あれを片づけようと思って
まだだったな、今やろうかな・・・
 
 
 
片づけるのは部屋? 
それとも課題の残り?
私たちの頭の中には
できたらね、と思っていることが
けっこうたくさんある。
 
 
 
そこでよし、と立ちがるか、
うーん、まあいいか、
とすわったままでいるか。
その小さな積み重ねが
そのうちけっこう大きな差になったりする。
 
 
 
クリスチャン生活も同じ。
このことはいつかお祈りしないと。
このことは整理をつけておかないと。
 
 
 
そういうことが心に示されたとき、
立ち上がって
示されたとおりにする。
小さなことでもその積み重ねがとても大切。
 
 
 
取税人マタイは、
収税所で仕事をしていた場所から
立ち上がって
イエスさまについて行った。
 
 
 
立ち上がるということは、
それまでのものを離れたり捨てたり
ってことを意味することもある。
 
 
 
それはこの世の基準からしたら
もったいなく見えることかもしれない。
でも、イエスさまの声に従った
っていううなずきは、
それを持ち続けるより確かな心の杭になる。
 
 
 
示されていることがあるなら、
立ち上がる勇気、
持てるといいね。

自分のために

「自分のために、
天に宝を蓄えなさい。」
(マタイ6:20



また自分の願いを捨てなきゃ
いけないの?
このみことばをそんなふうに
思ってしまうことはないでしょうか。



宝を地上にたくわえちゃだめってことは、
自分の楽しみを捨て、
自分の物を持つことをあきらめ、
人のために何かをしたり、
ご奉仕をしたりする、
自分的にはがまんの生活・・・



でもよく見ると、
天にたくわえる宝は「自分のため」。
と書いてあるじゃありませんか。



今までの聖書では「自分の宝」
ってなってたところが、
「自分のために」となったんだね。
「うむ、そうなんだよね」
アハ体験でした。



罪を持つようになった私たち人間は、
何でも自分を中心に考えるから、
ちゃんと全部話を聞かないうちに、
自分のイメージで
「それはこういうことにちがいない!」
と思い込み、
勝手に警戒体制に入ってしまうことがある。



神さまは
私たちをいじめようとしている
自由を奪おうとしている、
言いなりにしばりつけようとしている、
そうはさせない。みたいな。



でも、神さまが
みことばを通して言っていることは、
全部私たちのため。



地上に何も持っちゃいけない、
って言ってるわけじゃない。
でも、それは虫がついたりさびたり、
盗まれてなくなったりする可能性がある。



だから、宝にはできないものなんだ
ってことを忘れないでね。
それだけのために
せっせと労するのはむなしいよ。
そう言っているのです。